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夏遍路 石段続く 寺ばかり

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 高知方面は晴れのち曇り。高気圧に覆われておおむね晴れていた。気温は15度から25度、湿度は84%から62%。風は1mから2mの東北東の風が少し・・・。

 

 今日は、「おへんろつかさの会」おへんろバスツアーの研修旅行。これまでに徳島を回ってきて、今回から高知に入る。朝の6時半出発の20時半過ぎに帰着という遠い旅になった。

 

 今日は高知県の室戸岬からの打ち始めになるという。近くには「御厨人窟:みくろど」と呼ばれる約1200年前の平安時代、青年時代の大師が悟りを開いたといわれる洞窟があり、内には五所神社と呼ばれる社がある。“空海”と名前をつけたのも、ここから見える空と海に感銘を受けたからと言われている。

  

 今回のバスツアー研修には37人が参加し、「おへんろつかさの会」専属の櫻谷権大先達が案内してくれる。

 

 ここは24番札所の「最御崎寺:ほつみさきじ」。この人たちは別のバス遍路の方々。大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創建した。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛した。

 

 当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。往時、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。室戸岬では東西に対峙している26番・金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名には東寺と記されている。南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。

 

 室戸岬から海岸沿いを6Kmほどゆくと町中に小高い山があり、その山上に本堂がある。ここが25番札所の「宝珠山津照寺:しんしょうじ」で、参道右に大師堂と本坊。本堂へは125段の急な石段があり、ご本尊は大同二年、弘法大師が巡錫されたときに刻まれた延命地蔵菩薩。秘仏で拝観はできないが、海上の安全と火難除けの霊験あらたかという。

 

 慶長六年十月、国守の山内忠義は室戸岬を航行中、突然暴風におそわれた。そこへ大僧があらわれて船の楫をとり、全員無事、室戸港へ避難することができた。港につくと僧の姿が見えないので後を追うと、津寺の本堂の中へ消えた。ご本尊を拝したら、全身潮でびしょぬれで、それ以来楫取地蔵(かじとりじぞう)とよばれ、多くの船人から信仰されるようになった。また、寛保二年の大火の時も、ご本尊が僧の姿となって、人々を避難させたという。境内に立つと眼下に室津港がある。野中兼山の部下一木権兵衛が難工事の築港を命じられ人柱となっており、参道沿いに一木神社としてまつられている。

 

 次に向かったのが26番札所の「金剛頂寺:こんごうちょうじ」。津照寺をあとに、室戸から西北へたどると土佐湾に向って小さくつき出した岬がある。硯の産出で知られる硯ケ浦のある行当岬で、海抜200mの頂上に金剛頂寺がある。室戸岬の最御崎寺と相対しているので最御崎寺を東寺、金剛頂寺を西寺ともいう。山麓からの急勾配の参道を70mほど登ると山門になる。広い境内をおおう椎の大木。弘法大師は若かりしころ、この山で修行され、大同元年には勅命を帯びて鎮護国家の道場として寺を創建し、ご本尊の薬師如来を刻まれた。

 

 その後、七堂伽藍は整備され、寺領三千五百石を有し後に長曽我部元親や山田忠義からも保護されている。文明と明治の火災のため、堂塔を焼失するが、いずれも再興され、昭和58年に、本堂が新しく建立された。霊宝館には、大師が背負って歩いた旅壇具や真言八祖像など重要文化財六点のほか、古美術六十点が保管され、境内の鯨昌館には泉井守一氏関係のめずらしい捕鯨具類などが展示されている。

 

 ここまでは室戸市の札所だったが、奈半利町、田野町から安田町へと戻ってくる。ここまで国道55号を海岸線を走って大型駐車場にバスは止まる。ここからはタクシーで山中に入る。

 

 山道などをおよそ4Kmほどタクシーで登ると「神峰寺:こうのみねじ」に着く。神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、20km離れた家から急な坂道を21日間(三・七日)日参し、息子の出世を祈願した話は、いまも伝わっている。
 縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201〜69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。聖武天皇(在位724〜49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。

  

 明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は26番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、苦難の道を歩んで今日にいたっている。昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実例がある。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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