さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。また、昨日から黄砂を観測している所があったらしい。気温は17度から29度、湿度は86%から56%。風は2mから3mの南南東の風が少し。明日の30日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込み。引き続き、黄砂を観測する可能性があるらしい。
我が家の前の山の工事も着々と進んでいるらしい。今日は切り倒した木材をクレーンで下に落とし、それをチェーンソーで切り分けているらしく、チェーンソーの音が響き渡っている。
午前中は、この「巡礼の文化人類学的研究」ということで、「オヘンロサン」と「ヘンド」の相違点や違う点などを聞き書きや取材を通して調べたものの電子化作業。四国の中でも、曖昧な地区もあれば、はっきりと区分されている地区や、言葉にできない地域などさまざまであった。その赤裸々な言葉の数々が生々しい。この本を電子化するのに三日もかかってしまった。
お昼前には、さぬき市前山地区にある「遍路資料展示室」をのぞいてきた。ここは一般的は「前山おへんろ交流サロン」というが、本来の目的は「前山地区活性化センター」と云うもの。
ここにはさまざまなお遍路に関する資料などが展示してある。
今日の目的物はこれ。「往来一札之事」と題する毛筆で書かれた文書で、一般的には「往来手形」とか「往来切符」とかいう。私らはこれを「捨て往来」と呼んでいる。これを昼食まで読んでみた。
「越後の国の百姓五郎右衛門の弟、毎太(23歳)が神社仏閣拝礼の旅に出るので国々の関所を通して下さい。もし行き暮れた時には御慈悲をもって一夜の宿をお願いします。宗旨は代々禅宗にして円通寺の旦那に間違いありません。もし、いずこかの国で病死した時はその所の作法で葬って下さい。その節には国元への届けは不要ですので、念のため往来手形一札を入れておきます」という内容の文書である。
一方、こちらも越後の国の女性、片桐屋三九郎の母が巡拝に出た時のもの。「代々浄土真宗拙寺旦那に紛れなく御座そうろう。祖師(親鸞)聖人御旧跡(二十四輩など)拝礼ニ罷り出そうろう」とあって、以下、「捨て往来」の記述がならぶ。東浄土真宗というのは大谷派の寺院であろうか。
江戸時代には何人たりとも、国外へ出ることは許されなかった。そこで、神社仏閣拝礼とか四国霊場辺路とかの口実で旅に出たもの。伊勢参りや金比羅参りも同じような口実だった。
これは四国遍路が札所に収めた「納め札」と云うもの。天保十一年のものである。隣は弘化四年のものである。その時代は飢饉や地震が相次いで、多くの人々が南国四国へ逃げ込んできた時代だった。
これは安政三年というからオランダで咸臨丸が建造中の時期。いわゆる幕末期のことである。黒船来航などで世情が混沌としてきた頃で、人々は温暖な四国目指して、和歌山や堺あたりから小松島などに上陸してきたのである。
午後からは奥方のお供で夏用の衣服や食材の買い出しに出たが、途中からエアコンを稼働させた。窓を開けても信号待ちで止まれば汗が噴き出してきた。あの頃は30度を超えていたんじゃないかなぁと思った。
今日の掲示板はこれ。「私のものさしで問うのでなく 私のものさしを問うのです」というもの。これも正行寺さんの門前にあったものだろうか。仏教で説かれる智恵というのは、自分の物差しを問い正せる智恵であり、自らの愚かさに目覚められる智恵だとも指摘される。自分の物差しが絶対的なものではないということに気づけない状態こそが無智であるということである。 とかく、私たちは、自分の物差しだけで物事を見聞きし、考え、行動することが多いもの。そして、それが苦しみや迷いのもとになっている。 人間は、エゴ(自我、我欲)、つまり、その人の好みや癖、偏りに影響されながら、観たり、聴いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりして、外界の世界を認識している。それ故に、なかなか真実の姿(実相)を認識することはできないもの。選り好みや思い込みにより、真実の姿を歪めて取り入れてしまうからである。「心こそ 心まどわす心なれ 心に心 心許すな」という古歌もよく紹介されるが、このような特質をもつ、心の危うさを詠ったものだと思うことである。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。