さぬき市地方は気圧の谷や前線の影響で雨が降るというたけれど、少しも降らない。気温は22度から26度、湿度は88%から90%。風は3mから5mの南南東から南の風が・・・。明日の5日は、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、明け方にかけて雨となり、雷を伴う所があるらしい。
今日は気圧の関係か頭が重い・・・。天気も良くないことだし・・・と云うことで、今日もデスク・ワークになった。で、今日は「へんろの墓」。
こういう立派なお墓もあれば・・・、
こういうものもある。遍路は懐中に、「もし死んだ場合その土地の習慣で葬ってほしい、故郷への連絡は不要である」との手形を持って、巡礼をしている。しかし、死者に接した地元の人は、多くの場合丁重に遍路を葬った。その際、死後に石碑を建てるだけの金銭を所持していた遍路には、その金で墓碑が建立された。着のみ着のままで死んだ遍路は路傍に土饅頭をこしらえ、所持していた杖を墓標にし、笠を土饅頭に乗せたと伝えられている。
だから、こんな、何もないお墓もあちらこちらに残されている。特に88番大窪寺周辺には異常に多い。結願(けちがん)満願を目前にして力尽きてしまったのだろうか・・・。
このあたりは、まだ、木の枝でも供えてあるから立派なもの。花も花筒も何もないところが多い。多くの行路死した遍路は現在では自然の景色の中にまぎれてしまってもうその所在すらわからなくなっているのが実情。
この人は四国順拝二百八十回を達成し、二百基に余る道標石を残した中務茂兵衛義教で、下の歌を添えた石を二基立てている。これらの道標石を自身の墓標とみなしていたので、実際に自身の墓はない。
生れきて 残るものとて 石ばかり 我身は消えて 昔なりけり
四国へんろは結願寺、大窪寺をめざして四国中を歩いてきた。江戸時代の遍路は、旅の苦難のために命を落とす者もあったという。一部の裕福な階層の遍路をのぞいて、多くの遍路は多くの路銀を持たない貧しい人々であったという。遍路道の沿線にある家々の門前に立ち、遍路の修行と称して門付けし、その家の祖霊を拝み読経した。そしてその家から接待という何がしかの喜捨をうけた。これを旅の費用とした。
貧しい遍路は基本的に四国の沿線の人々の行為に頼って巡礼を続けていた。そういう貧しい遍路は総じて栄養事情がよくなかった。そのために、普通の人には何でもないところでも、落命につながる変事になったという。河川を渡っていて足をとられ流されたり、岩山で転落したり、山越えの道でも命がつきることがあった。また寒い冬に仮の宿とした橋の下で遍路が明け方に冷たくなっていた、というような話は、遍路沿いで数多く語り継がれてきた。
遍路墓の建立はひとり、死んだ遍路の問題だけでなく、地域を巻き込んだ一大事でもあった。地元の者は、遍路のことをヘンドと物乞いをする乞食のように一段と低める呼び方をして冷遇する一方で、別には弘法大師の化身の聖者であるかのごとく扱う見方もあったため、死んだ遍路の存在はその処置をめぐって地元の人々にも大問題であったという。
こう暑くなってきて、夏草が伸び出してくると、お墓探しもできなくなってしまうので、梅雨の間や夏場には資料整理になってしまう。
梅雨になるとアマガエルが賑やかになった。このあたりは過疎と高齢化でたんぼを作る人が少なくなって、水田というものが見えなくなってきている。
今日の掲示板はこれ。「人間にとって いちばんひどい病気はだれからも必要とされないと感じることです」というマザーテレサさんの言葉から。マザーテレサさんの遺言からです。
「私たちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさえありません。
ほほえみを、ふれあいを、忘れた人がいます。
これはとても大きな貧困です。」
「多くの人は病んでいます。
自分が全く愛されていない、関心を持ってもらえない、
いなくてもいい人間なのだと…。
人間にとって
いちばんひどい病気は、だれからも必要とされていないと感じることです。」
「どんな病気に対しても、医薬品や治療法があります。
けれど、だれからも必要とされないという病気は、
喜んで差しのべられる奉仕の手と、
愛するための愛の心があるところでない限り、
癒されたことはないと、わたしは思います。」
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。