一気に夜明けが遅くなったように思う。曇っているせいもあるのだろうが、朝の6時になっても薄暗い。そんな日曜日の朝、5時起きで、犬の散歩を済ませて、6時出発。さぬき市役所前に6時半集合である。今日は「おへんろつかさの会・定例バス研修」の日である。
この頃になると少しは明るくなってきた。今回は愛媛県西部久万町からの旅である。峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場・大宝寺に向かう。四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高490mの高原にあり、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。
縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めたという。
このバス研修は、「おへんろつかさの会」の霊場開創1200年記念事業として、会の専属権大先達の櫻谷(さくらや)さんとともに四国霊場を巡ってお勉強をするもの。さぬき市にある「上がり三ヶ寺」の案内ガイドをする上で、総合的な知識を身につけるために四国八十八カ所を回るもの。
次に向かったのが四十五番札所の岩屋寺。ここはバスを降りてから20分ほど山道を歩く。それも石段が多い。先の大宝寺も山道をだらだらと歩いたが、ここはその三倍も四倍も歩く。入院退院直後の身体にはこたえた。特に朝が早いため空腹状態。さすがに「熱中症」になるのかなぁと思うほどの頭痛と筋肉痛。脂汗まみれで這うようにして本堂へ・・。そこの手洗い水をごくごくごくごく飲み干して・・・ようやく回復。
標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されている。弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされたという。
岩肌にくっつくようにして建てられたお堂ほかに圧倒された。会長さんは、このはしごを登って上のあなぐらまでおまいりに行った。
待望のお昼ご飯。時間は12時半を過ぎている。こうしてみるとごちそうに見えるが、単品だけをみると普通のそこいらのものを並べただけ。上の魚の飴煮がおいしかったのが印象に残っている。珍しくご飯のおかわりをした。ここは国民宿舎古岩屋荘。
次に向かったのが四十六番札所の浄瑠璃寺。浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場である。参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。縁起を辿ってみると、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んでいるのだという。
浄瑠璃寺から北へ約1キロと近い八坂寺との間は、田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697〜707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
ここでは特に住職さんから修験道を通して、自分の生き方を見つめる・・みたいなお話を伺った。
寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれている。「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、松山市の天然記念物とされている。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。
こうした先達さんの指導の下で楽しく充実したバス研修になった。
今日の掲示板はこれ。岩屋寺近くで見つけたもの。ここでは、こういうTシャツを売っている。「まだまだこれからじゃ 岩屋の坂と人生は」というもの。ここにいう岩屋の坂というのは、愛媛県四国霊場第四十五番の岩屋寺への坂道を示している。駐車場から坂道を えっちらおっちらと20~30 分歩いてようやくお寺にたどり着くのである。八十八ヵ寺のうち、クルマでも大変だと思われるところが、 10 ヵ寺程度はある。健康でなければ歩いて、上り下りできないのである。遍路は、歩き遍路の人は言うに及ばず、クルマやバスで行く場合でも困難なところがある。健康維持のために遍路している人もいると聞く。時間とお金と周囲の協力が必要だが、楽しみの方が大きいから、続けられるのだと思う。 「健康」」観光」「信仰」・・・。何でもいいが、丹念に歩み続けて行きたいものである。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。