さぬき市地方は前線や南からの湿った空気の影響で次第に雲が広がり、夕方からは雨や雷雨となって、急な強い雨が降ってきて洗濯物がずぶぬれになってしまっている。気温は24度から28度、湿度は94%から75%。風は1mから3mの北北東の風が少し。明日の7日は、引き続き前線や南からの湿った空気の影響で雲が広がり、明け方にかけて雨や雷雨となるらしい。その後は、高気圧に覆われて次第に晴れる見込みとか。
今朝の早朝、我が家の近くで乗用車が横転して、レスキュー車や救急車が駆けつけてきて賑やかだったが、自損事故だったものであっさりと片付いてしまった。朝から居眠りでもしていたんだろうか。
さて、昨日の続きで、「さぬき市の偉人を巡る」というポイント探し。坂出市の場合の六人の偉人は、坂出市生まれではなくて、坂出市ゆかりの人ということだった。それならば・・・ということで、志度寺ゆかりの、「藤原不比等・房前」の「海女の墓」や、「生駒親正のお墓」を再確認してきた。おりしも、今日は、「おへんろつかさ・養成講座」八期生の講義の日だった。
生駒親正は生駒親重の子として美濃国可児郡土田に生まれる。永禄9年(1566年)、織田信長の美濃攻めに際してその臣下となる。その後は羽柴秀吉付属の武将に任じられ、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加した。天正10年(1582年)の信長死後は秀吉の家臣となり、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍。姫路城主時代の秀吉に仕えていた天正6年の約1000石からはじまり、同12年に2000石加増、同13年に2万3500石、同14年には6万石と着々と知行を増やし、文禄4年には讃岐国17万1,800石を与えられた。
志度寺の境内の一角に「海女の墓」と呼ばれる五輪塔群がある。この墓には藤原不比等・房前親子にまつわる伝説が残されており、志度寺縁起にある「海女の玉取伝説」として有名である。
さぬき市にも「西行法師」ゆかりの地があり、石田高校前の「寒川清水:真清水」や「三重の滝」などがある。
ここの滝も先の洪水の時に景観が一変してしまって、かつての風景は失われてしまって訪れる人もいなくなった。
さぬき市長尾にある長尾寺の境内には「静御前の剃髪塚」がある。そのお母さんの「磯野禅師」のお墓も近くにある。
さぬき市志度には「竹林上人」の「竹林庵」やゆかりの修行場なども残されている。
そうそう、さぬき市津田の「津田の松原」には、あの版画家「棟方志功先生」ゆかりの松の木もある。
これで、西行法師・静御前・竹林上人・生駒親正・棟方志功・空海・種田山頭火・藤原不比等・房前・行基・平賀源内・小西和・軒原庄蔵・・・と、けっこう、集まった。これを、どうやってまとめるかだな。
今日は、そんなふるさと散歩の途中、ここに寄った。さぬき市長尾東にある「うどん亭いわせ」という一般店。
たまにはいいか・・ということで天ぷらうどんの700円。最近は、キュウリやらナスビばかりを食べている気がする。雨が多いから野菜がどんどんと大きくなるらしい。だから、たまにはこうしたおうどんも食べたくなってくる。
今日の掲示板はこれ。「すてきれない 荷物の重さ まえうしろ」という種田山頭火の俳句から。・種田山頭火の一生は想像を超える「喪失の歩み」であった。幼き頃の母の自死、裕福だった生家の離散、借金苦からくる親族の自死、突きつけられた妻との離縁…全てを失った彼は電車妨害騒動ののち、縁あって仏門に入り、放浪の旅に出る。まさに「何もない」ところから始まったその歩みは、広大自由な句の世界を遺し、のちの人の胸を打つ。それほど失い続けた彼にも、まだ捨てきれぬ荷物が前に後ろにあるという。無縁社会などとうそぶいてみても、人間はどこまでもつながりからは離れられない。それが「身」というものである。そしてそのつながりは、かならず場所を伴う。それを「土」という。宗祖親鸞聖人が大切にされた、身土に生きる人間の実相である。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。