四国地方は、高気圧に覆われて晴れていまた。愛媛県も高気圧に覆われて晴れて暑いほどの一日になった。気温は18度から27度、湿度は84%から58%、風は1mから3mの西風が少し。
今日も月末の最終日曜日は「おへんろつかさの会」の「櫻谷さんといくバスツアー」という研修の旅。旅というほどの大げさなものではないが日帰りバス旅行。今回は愛媛県の松山周辺の旅である。
「おへんろつかさの会」というのは、さぬき市において、四国遍路の知識を伝え、さぬき市を観光的歴史的側面から全国に発信する活動をしている団体で、主には、上がり3ケ寺の案内や春と秋に遍路道を歩くまち歩きイベントを開催している。
今回は四国霊場48番札所の「浄土寺」から53番の「円明寺」までの5ヶ寺である。空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。
鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469〜87)に領主、河野道宣公によって再建された。本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。
松山市の汚水管のマンホールの蓋である。特産の日本三大絣の伊予絣と市花ヤブツバキをデザインしてある。
50番の繁多寺は一遍上人ゆかりのお寺。伊予の名門、河野通広の次男として生まれ、10歳のとき出家、のち全国を行脚し「遊行上人」「捨聖」と呼ばれた。
51番石手寺は日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。住職さんの趣味なんだろうが渾然とした境内である。衛門三郎伝説の地であって、にぎやかなお寺である。
縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。
この日の昼食はここ。旬彩ダイニング 菜の花というお店でバイキング方式。
いつも小食なので控えめにしたが、皆さんは三食分も四食分も食べなさる・・・。
私はこんなもの。野菜中心。ご飯は珍しくお寿司。
昼食後は52番札所の太山寺。この本堂は国宝である。
と言われても、「ふーん」と思うばかり。また、ここには最古と言われる「納め札」があることでも有名。
昔は紙は貴重なものであったので、こういう木札に願い事や施主の名前を書いてお堂や建物に竹釘で打ち付けたという。この事から「札所」と呼ばれるようになり、お遍路することを「打つ」というようになったという。
若い娘さんが一生懸命におまいりしている姿が印象的だった。
53番札所の圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。
ここにはキリシタン石塔が大師堂左の塀ぎわにあり、高さ40cmほどの灯籠である。キリシタン禁制の時代、この地方には信者が多くいて、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していたらしい。
この円明寺にあった掲示板はこれ。「遊ぶときは大人だが仕事はまるで子供だね」という荒了寛さんの言葉から。遊んでる時も子どものような気がする。すぐにむきになったり、勝ち負けにこだわりすぎたり。仕事はどんなだろうか。自己満足で終わるのではなく、しっかりと相手に伝わる仕事ができているだろうか。子どもが物事を覚えるように楽しんで、大人の結果が出せる仕事していきたいものである。遊びは子供のままでもいいような気がする。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。