さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。今日は暦の上では「大寒」らしいが、暖かい一日になった。気温は4度から10度、車の中では暑いくらいだった。湿度は69%から54%、風は1mから4mの北の風が少し。明日の21日は、気圧の谷や前線の影響で雲が広がり、夜には雨が降る見込みらしい。
今日もまた、香川県立図書館にやってきた。山頭火に関する本を返却して、さぬき市内にある句碑や歌碑に関するものを探してきたが、かいもく、役にはたたない本だった。
で、さぬき市内にある「あがり三ヶ寺」を回ることにして、まずは86番札所の志度寺にやってきた。と言っても参拝ではない。ここにある句碑や歌碑を探すためである。
目的の句碑はこれ。「海女の墓」前にある高浜年尾の句碑で、「盆に来て 海女をとむらふ 心あり」と刻まれている。高浜年尾は俳人で、東京の生まれ。高浜虚子の長男で稲畑汀子の父。虚子から俳誌「ホトトギス」を継承して主宰した。現在は稲畑汀子が引き継いでいる。著作に「年尾句集」や「俳諧手引」などがある。
これが海女の墓周辺にある供養塔群。近くには高松藩主だった生駒親正の墓もある。
これが生駒親正の墓である。このような五輪塔のような墓を「生駒墓」といい、この墓地のあちらこちらに、このような墓がある。生駒家に関するものだろうか。
境内をくまなく歩いて、ほかに句碑や歌碑はないかと探したが収穫はなかった。
ちょうど、11時になったもので、このお店に入った。「溜(たまり)というプチ・セルフのうどん屋さんである。少し時間が早かったものか、お客は数人しかいなかった。
で、今日は「しっぽくうどん小」をお願いした。360円だった。具材が多かったのか食べても食べても減らず・・・汗を流しながら食べたものだった。
お次に向かったのは87番札所の長尾寺さん。ここにも歌碑が数基あるらしいと聞いたのでやってきたのだが、境内のどこを探しても、それらしきものは見つからない。
今の時期、お遍路さんは少ないのか、ここでは誰一人にも会わなかった。志度寺さんでは数組のお遍路さんを見かけたけれど。ここでは全く、収穫なし。
ついでやってきたのは「真宗 宗林寺」さん。ここは「俳諧の寺」として有名なのだが、その俳句の好きな前住職さんが亡くなってからは荒廃していたらしい。今度の住職さんが懸命に手入れをしている最中らしい。本堂前は物置状態になっている。この山門の両脇にあるものも句碑である。
今日は天気もいいので、全ての句碑・歌碑・文学碑を写真に収めたが、山頭火の句碑が21基、その他の碑が32基で合計53基もあった。だが、私の探している句碑は4基ほどが見つからない。丁寧に探したのだけれど。明日の朝、再度、リベンジである。
そして、さぬき市「あがり三ヶ寺」の三番目は88番札所の大窪寺さん。ご覧のように一般の参詣人というか観光気分の方がパラパラと。ここにも「高浜年尾」さんの句碑があるというので探しに来たのだが見つからない。「山門」と書いてあったのだが、山門の周囲を探しても見つからない。さては・・ということで、旧山門、現二天門の近くを探したのだが見つからない。あきらめて本坊のほうに下がっていくと、その途中にこの句碑があった。
「一つ長き夜の藤房をまのあたり」と刻んである。この年尾さんの句碑は、香川では志度寺さん、大窪寺さんと善通寺さんにしかないという。これで、今日の宿題はおしまい。
今日の掲示板はこれ。「欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて 道を失う」というもの。幕末三舟の一人で、三舟の中でもっとも高潔ともいわれる高橋泥舟の歌である。槍術の天才であり、徳川慶喜に絶対的に信頼された高橋泥舟は、明治の世の訪れとともに旧主にならい隠棲した。その進退を表現して詠った歌もまた、ユーモアに富みつつ、泥舟の器の大きさを感じさせる。
狸にも あらぬ我が身もつち舟の こぎいださぬがかちかちの山
童話の教訓を引用しつつ、泥舟の価値観を見事に感じることができる歌である。同じく三舟の一人、勝海舟は高橋泥舟の愚直さを「泥舟はおおばかだよ。とても才子じゃできない」と、彼らしい皮肉で評価している。言うまでもなく、この歌が彼の号である「泥舟」の起源であるという。ちなみに、「幕末三舟」のあと一人は「山岡鉄舟」である。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。