東かがわ市地方は、気圧の谷や前線の影響で雲が広がり、夕方には小雨も降ったし、夜には雨が降るらしい。気温は、14度から27度、湿度は64%から76%、風は1mから10mの南南東の風が強く吹いたと言うが、お寺の中にいたからか、全く、気づかなかった。明日の19日は、引き続き前線の影響で雲が広がり、明け方まで雨となる見込みらしい。
ようやく月曜日になったのだが、右足の腫れも痛みも少なくはなった。だから、明日か明後日には回復するかなぁと思ったのだが、けいこばぁが、「絶対に行ってよ~」というので、しぶしぶ腰を上げて、県立病院に寄ってみた。
だと、案の定、レントゲン検査に尿検査と採血による検体検査。ところが、データー的には、どこにも異常は認められない。血液検査では、「肝臓の数値が高い」というくらいで、どこにも異常はないと仰る。レントゲン検査でも骨とかにも異常はない。触診でも痛みは感じられないし、目で見ても腫れなどの症状は確認できないと仰る。
月曜日には似たような人が多くて、どこも待ち時間が永い・・・。3時間待って、2分くらいの診察があって、おしまい・・。飲み薬もシップ薬もない・・・。
現役の頃の「電話の雑音」とか「ノイズ」とかというものは、症状が見えない。で、私らが帰ると、またもノイズが出る・・。それと同じで、ドクターの前では症状が見えないのだけれど、自宅に帰れば、症状は出る。そんなもんだ・・。
さて、今日は所属寺院の「春季永代経法要」の日。兄弟子が仕事でお参りできないというので、「これは大変だ・・」というので、駆けつけた。もう、すっかりと、準備は出来上がっていた。私は受付担当である。あと、給仕一般のお手伝い。
讃岐国名勝図会には、開基は明暦三年(1657)沙門正哲の草創とあるが、寺伝によると、天正四年三好氏落城のとき、その家臣板西城主赤澤信濃守は中富川の合戦において討ち死にし、天正十年(1582)赤澤信濃守の一子正本法師が菩提を弔うため、大坂天満興正寺で証秀上人につき得度し、丹生の郷小砂村に小砂坊を開基したのが勝覚寺の始めとされている。古い安楽寺末寺帖にも小砂正覚寺とあり、追加の記事にも三本松正覚寺とあり、創建も寺伝による天正年間が正確といえる。安楽寺末寺となったのは、阿波三好氏の関係であろうと思われる。その後正覚寺と号した。九代目願故のときの貞亨元年(1684)三本松村に移り、海暁山勝覚寺となったとされ、港町三本松の発展とともにその勢力をひろめ、寺院としての体裁を整えた。(まほろば自然博物館HPより)
12時に鐘を撞いて・・・。撞いたのは英海さん。なんとなく、境内は静か・・・。
法要は英海さんが導師となって、仏説阿弥陀経のお勤めとご和讃。
今日のご法話は、西植田町・称名寺住職の柴田好政師。今日は、妙好人についてのお話となり、この寺ゆかりの「庄松同行」についてのお話がメインになった。
この庄松さんは、何歳の時の像だろうか・・とか。この銅像が何歳の時のモデルかと言われても・・・住職の明海さんでも知らんやろ・・・。晩年頃のものだとは思うけれど、「何歳の時のお姿か」と言われてもなぁ・・・。そういうことは、まるきり、想定もしていなかったし、気にもしていなかったが、何をモデルにして、この像は造られたのか、調べてみる必要はありそうだ。間もなく、没後、150周年、150回忌法要も予定されている筈。
あちらこちらに、庄松(しょうま)さんの肖像画はあるが、どこにも「満何歳のもの」などという日付けは入っていない筈。確証はどこにもないような気がする。
ご法話が終わったのが15時半。それから、法具や打ち敷きなどを片付けて・・・。特段の足の痛みもなくお仕事を終えたことだった。
今日の掲示板はこれ。「できるからやるんじゃない やるからできるようになるんだ」というもの。久保ひろしさんの「やるからできる:人生を劇的に変える思考法」から。物事に、最初からできるものはない。少しずつ、こつこつとやり続けているから、立つことも、歩くことも、走ることも、お箸を使うことも、鉛筆を持つこともできるようになった。やってきたからできるようになったんだ。これからもそうだ。できることをやるのは当たり前だ。できないことをこつこつとやり続けていたら、できないこともできるようになる。
じゃぁ、また、明日、会えればいいね。