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Channel: まほろば自然博物館
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まだ慣れぬ 山ほとぎす 鐘ひとつ

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 さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がるけれど、その後は高気圧に覆われるため、昼過ぎから晴れていた。気温は16度から24度、湿度は89%から44%、風は3mから1mの南南西の風が少しばかり・・・。明日の25日は、高気圧に覆われて概ね晴れるけれど、午後からは大気の状態が不安定となり、雨の降る所があるらしい。

 

 今日は、天気がいいからか、朝から、「テッペンカケタカ」「テッペンカケタカ」の声がうるさいほど・・。まだ、「東京特許許可局」には聞こえない。「テッペン、駆け寄る」「テッペン、カケヨル」程度・・・。のど自慢なら、鐘一つ・・・。

 

 さて、天気もいいし・・ということで、今日は善通寺市西部に行ってみた。すぐそこは、弥谷寺が近い場所。山道を進んだら、弥谷寺に入っていきそうな場所・・。この地下道みたいな所は、上を高松自動車道が走っていて、鳥坂(とっさか)峠がすぐそこ・・・。

 

 そんな遍路道みたいな場所に、こんな怪しげな場所がある。

 

 見上げた上には、こんなものが・・・。これは、何を意味するものであろうか・・・。とにかく、行ったり来たり、戻ったり・・・。ここは、一体、何が有名で、何が特徴なのか・・。

 

 昔の人は「巧者」なものだ。何か、仏様でも彫ってあるみたいだけれど・・。地元の人は、「蛇石」だというのだが、何が、どう、「蛇」なのかわからない・・・。とにかく、知らないものは、知っている人の半分も知らない・・・。

 

 これが、その供養石と言われるものである。法然上人さんがここを通りかかった時、弟子に汝の父が蛇になって、この岩の中で苦しんでいると言って、岩を割らせて、これを救い出したと伝えられているらしい。

 

 これが、供養碑に刻まれている歌の拓本であるが・・・。「さむくとも 袂にいれよ 西の風 弥陀の国より ふくと思えば」という歌らしいが、なんで、この歌がここにあるのだろうか。この歌は、親鸞聖人が、越後から常陸国をご教化の際に、懐かしさのあまり、お弟子二人を伴って、大雪の中、日野左衛門の館を訪ねたのが、建暦2年(1212)旧暦11月27日の夕方であった。主はそれとは知らず、一夜の宿も貸さぬばかりか、仏道修行をする者は身命を惜しまず野や山に寝るのがあたりまえ、雪や嵐を苦にして安楽に宿をとるとは何事か、と悪口を申して門前まで追い出してしまった。聖人は、日野左衛門のこのような態度に腹も立てず、自分を戒め、日野左衛門のみ教えの未熟さを歎かれ、この者をここで救わなかったなら、彼は一生苦しむであろう、あの邪険驕慢な態度を直して救うのが私の務めだ、と決心された。厳冬の夜、降り積む雪の中では、いくら修行の身とはいえ、寒さが身にしむので、心配したお弟子がお声をかけると、「寒くとも袂(たもと)に入れよ西の風 弥陀の国より吹くと思えば」と読まれ、二人のお弟子を諭し、門の扉止めの石を引き寄せて休まれたという。その扉石が「お枕石」であり、「枕石寺」というこの寺の名前になったと伝えられているが、その親鸞聖人の歌が、なんで、ここに刻まれているのであろうか。

  

こうして見ると、まさしく、蛇が口を開けて襲いかかってくるようである。それをさせじ・・・と、法然上人が、供養碑を口に建てて、噛みつくのを防いでいるようにも見える。

 

 こちらは、全く、逆方向にあたる、旧の仲南町十郷買田という地区。土地勘がまるきりないので、これを、どう、読むのかはわからない。琴平町から、宮田の法然堂に向かう川の中にあるものだが、ここを、「法然上人腰掛け石」と呼んでいる。「南無阿弥陀仏」と刻まれた「名号石」以外には何も見えない。まさか、この「名号石」に腰を掛けた訳でもあるまいに・・・。

 

 これでは、まるで、どなたかのお墓みたいではないか・・・。法然上人は、どこに腰を掛けたんじゃろうか・・・と、見回すこと10分余・・・。

 

 あれじゃろうか・・、これじゃろうか・・。ま、これが一番に近いから、これだろうかと思うばかり・・・。

 

 さて、午後からは、例によって例のごとくに、「おへんろつかさの会ホームページ」の作成をやっておく。ホームページ・ビルダーのクラシック版では「公式ホームページ」を。SP版では、「WordPress」仕様を、ほぼ、カスタマイズできた。

 

 で、出来上がったものを、「ドキュメント化」しておく。「コンピュータ 電気なければタダの箱」にならぬように、証拠を紙に残しておくという、相変わらずのおじさん手法・・・。

 

 余った時間で、「向山周慶」の別視点からの「パワーポイント化」もやっておく。

 

 今日の掲示板はこれ。「人生は いろいろあるから 退屈せんでよい」という 曹洞宗の僧侶、余語翠巖(よごすいがん)さん(1912-1996)の言葉から。確かに永い人生に於いて様々なことが起きては過ぎる。それを退屈せずに楽しむか、退屈しながら漫然と過ごすかで人生の味わい方は大きく違う。有り難いと思って過ごすのか、苦痛だと思って過ごすのかでも人生は大きく違う・・・。その選択で、人生の味付けも変わってくる。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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