さぬき市地方は対馬海峡付近にある前線を伴った低気圧の影響で雲が広がり、雨が降っていた。今日の香川県は、低気圧や前線の影響で雲が広がり、雨が降りやすい天候になった。気温は24度から29度、湿度は81%から88%、風は2mから1mの南南西の風が少しばかり。明日の13日は、引き続き低気圧や前線の影響で雲が広がり、朝を中心に雨が降る見込みらしい。
朝の涼しい間にお墓の掃除をしてきた。でも、どこからか人間様の臭いをかぎつけて、アブやブヨが攻撃してくるので早々に作業を切り上げた。どうにも、こういう虫たちには弱いのだ。
来月末にも、東かがわ市で講演会があるので、その取材を兼ねて、徳島県板野郡上板町にある「岡田製糖所」にやってきた。言い伝えでは旅の修行僧が立ち寄ったとき、九州において同じような土質で砂糖黍が栽培されていた事を土地の者に伝え、それを知った丸山徳弥(後年、丸山姓をもらう)と言う若者が単身日向の国に赴き、砂糖黍の苗と製法を修得して帰って来て、この地に砂糖黍栽培の礎を築いたと言われている。
だから、讃岐の和三盆糖と、この阿波和三盆糖とは、全く別の発端から始まり、全く異なった歴史を持っていて、全く関連のない和三盆糖であることがわかる。ここは、岡田製糖所の資料館である。
当時作られていたのは白下糖であり、これだと簡単な設備で製造できた。やがて白下糖を精製して白い砂糖を作り出す技術があみ出され、和三盆糖の製造が始まることとなった。世界にも例をみない、水で研ぐという和三盆糖精製の方法は、どのようにして発見されたかは良くわかっていない。「昔、樽に入れた白下糖を運ぶおり、過って川に落としたものを引き上げたところ、上部が水で洗われて白くなっていた。」と言う話も有るのだが、物語としておくべきかも知れない。石の重石を架けて、てこの原理で糖蜜を絞り出す「押し舟」と言う方法は、明らかに当時の酒屋の糟絞りを流用したものと思われる。
ここには、明治から大正、昭和までのさまざまな機械類が展示されている。省力化、生産性の向上のために、いろいろと工夫した様子が見て取れる。
すぐ近くにあった、「上板町立歴史民俗資料館」にも寄ってみた。ここは210円の入館料が必要だった。
町立の資料館ということで、町内外の雑多な資料が所狭しと並べられている。ここは、男性職員が直々に案内をしてくれて説明までしてくれた。この一番奥に、砂糖に関する資料が展示されていた。
これがサトウキビを絞る「締め機」であるが、讃岐の物とは石材が違うが、構造や洋式はまるきり同じもの。道具もほぼ同じものが使われていたが、讃岐との交流なんぞは微塵もなかった。
これらの野道具の多さには驚いた。とにかく、なんでもかんでも投げ込んである・・・という感じ。
新しいお客さんがやってきたので、交代して私は資料館を出た。そして、今度は大坂峠を越えて香川県東かがわ市に戻って来て、「東かがわ市歴史民俗資料館」を訪ねた。
ここにも若干の製糖器具が保管されていたが、民具や漁具の方が目立っていた。
これで見ると、讃岐の「白砂糖」がダントツであることがわかる。薩摩の特産品であった砂糖は「黒砂糖」だったのか・・・。そして、阿波の和三盆糖も高順位につけている。
この三連式の締め機は、久米通賢が改良したものだと言われている。
この砂糖締め機(圧搾機)は、簡易締め小屋や、こうした「常小屋」に据え置かれていた。
これは、平賀源内が紹介した中国の圧搾機である。最初はこれをコピーして使っていたらしい。で、圧搾胴は、木製であったらしい。これを、久米通賢が讃岐の庵治石に替えて効率化を図ったという。
これは、大坂に送られた全国からの砂糖の流通量である。ここでもダントツで讃岐高松が多い。これで、讃岐三白のうちの、讃岐二白(砂糖・塩)が讃岐高松藩の特産品であったことが伺い知れる。あと一つは讃岐丸亀藩からの「綿」であった。
今日の掲示板はこれ。「わたしでは役に立たぬとなげきつも お礼を申す大仕事あり」というもの。 私たちは親の愛情や苦労を当たり前のことと思ってばかりではないだろうか。一生懸命働く親の姿に目が向かず、お礼申すことを忘れ、自分のことばかりに目が向いていることが多々あるというもの。 親はそんな子供の姿に関係なく、子供のために一生懸命なのである。朝から晩まで働きづめの親であったのだ。お盆に入ってみて、あらためて生前の母を思い出してみると、私は母の休んでいる姿を見たとこがないように思う。私たち子供のために、朝早くから夜遅くまで一生懸命に働く母の姿ばかりが思い出て来る。一生懸命働いた母にありがとうとお礼を言ったことは一度もなかった。その、お礼を申すという大仕事が残っている・・・。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。