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コスモスは きらめく露の そのままに

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 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は17度から26度で、朝は肌寒く昼間は夏日のような暑さになった。湿度は84%から62%、風は1mから4mの北の風が少しばかり。明日の21日は、上空の気圧の谷の通過や寒気の影響で雲の広がる時があるけれど、引き続き、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みなんだとか。

 

 世の中はシルバーウィークだ運動会だ敬老会だとにぎやかだけれど、讃岐の片田舎、「ドーナツのド」が付く田舎では何のイベントもお呼ばれもない。

 

 「彼岸」という言葉は、サンスクリット語の「パーラミター」の漢訳「到彼岸」の略だといわれている。元は仏教の用語で、「煩悩が満ちあふれている現世である此岸(しがん)を離れて修行を積むことで煩悩から脱却して、悟りの境地に達した世界(彼の岸)に到達する」という意味を示している。

 

 現代の私たちが普段使っている「お彼岸」という言葉は、彼岸の期間にお寺などで行われる彼岸会と呼ばれる法要や永代経と呼ばれる法要、先祖供養の意味で用いられることのほうが多くなっているらしい。「お彼岸にお墓参り」という文化は、仏教徒が多い他の国と比べても日本だけの独特の風習だと言われている。

 

 ということで、お墓の掃除とお花をお供えしてきた。

 

 これは「花オクラ」の花である。普通のオクラの花よりはずっと大きい。これを奥方が育てていて、これでお肉やキュウリなんぞを巻いて食べたり、これを刻んで「錦糸タマゴ」のようにしたりして食べる。で、これを収穫してきて、ビニール袋に空気を入れて保存する。

 

 味・・・。花びらだから味という味はしない。ただ、歯ごたえというか、風味というか。お勧めするほどのものではないが、少し変わった食べ物と言うことで・・・。

 

 お昼前に、おへんろつかさの会の理事をされている樫原さんがやってきて、チラシを配って欲しいと仰る。見れば「倭琴(わごん)」の演奏会の案内である。

 

 藍川由美さんは、香川県綾歌郡宇多津町生まれで東京芸術大学出身の声楽家。1985年、ニューヨーク・カーネギホールにおける歌唱で評価された。1986年大学院博士後期課程を修了し、翌1987年学術博士号取得。博士論文は「演奏家としての立場における『山田耕筰歌曲の楽譜に関する研究』」。1992年「藍川由美リサイタル」の成果により文化庁芸術祭賞受賞。リサイタル活動のほか、楽譜の校訂および日本の歌に関する著作を発表している。西洋の伝統的なクラシック歌曲よりも、日本の伝統に根ざした歌曲を積極的に歌い、CD収録を続けている。(Wikipediaより)

 

 チラシの写真は妖怪か山姥(やまんば)みたいだけれど、実際はこういう女性である。あの、四国霊場86番札所「志度寺」さんの書院奥にある「無染庭(枯山水庭園・重森三玲作庭)」を眺めながら、倭琴(わごん)の魅力に引き込まれたいもの。

 

 ま、有名というか、お忙しい方のようで、この日程を決めるのに、今までかかったみたい。で、ようやくにチラシができたというわけ。なかなかに役員さんもたいへんだ・・・。私はこれで、電子チラシ配布・・・・ということで。

 

 確かにセミの鳴き声が聞こえなくなったというのは気温が下がった証拠。お彼岸の入りになったのだから秋になったことは間違いない。

 

 今日の掲示板はこれ。「小さきは小さきままに、折れたるは折れたるままに、コスモスの花咲く。どんなに茎が折れ曲がっていようが、花びらがいかに小さかろうが、咲いた花は美しいのです。」しいのみ学園 園長の地(しょうち)三郎さんのことばから。

 

 『博多湾に浮かぶ能古島があり、この島の頂き近くには「折れたコスモス」と題された歌碑がある。「小さきは 小さきままに 折れたるは 折れたるままに コスモスの花咲く」。この歌の作者は、現在110歳にもならんとし、世界各国で特殊教育の講演を続けておられる元福岡教育大学教授・昇地三郎氏である。昇地三郎氏は、ご自身のお子さんが二人とも障害児として生まれ、当時は特殊教育も発達していなかったために、自ら福岡市南区井尻に「しいのみ学園」を設立され、試行錯誤の末に日本の特殊教育の先駆者となられた。ご子息二人はすでに亡くなられたが、能古島の「折れたコスモス」の歌碑は、日本の特殊教育の「記念碑」ともなったのである。

 ではどうしてこの記念碑が能古島に建つことになったのだろうか。ことの発端は、能古小学校出身で当時高校二年生の上村啓二君が交通事故で亡くなったことであった。この上村君は、能古小学校時代に書いた作文で小中学校作文コンク-ルで西日本新聞社・テレビ賞(1978年)を受賞したことがあった。その中に次のような一節があった。

 「その倒れたコスモスの茎にはナイフで切られた跡があった。つぼみも小さく横に倒れていた。コスモスの先を手で触ったえら、そのときしずくがぽつんとなみだのように手のひらに落ちた。秋も深まった日、いつしかコスモスを見に行った。白・赤・紫のコスモスの花が群れになって咲いている中を一生懸命に探した。やっと見つけることができた。他のコスモスの花と違って、ちょっと小さな花が三つほど咲いていた。小さい。でも、僕にはその三つの花が、一番美しくかわいく見えた。今は泣いていないようだった。」

 福岡教育大学での昇地三郎氏の教え子達の間で、氏の長年の功績に対する記念碑を建てようという動きが起こった。その教え子の中には、特殊教育を専攻した歌手(俳優?)の武田鉄矢もいた。この上村君の「倒れたコスモス」と昇地氏の「折れたコスモス」を結びつけたのが、能古小学校校長の中野明氏であった。中野校長は、教育大学のかつての先生である昇地氏の碑を何処に建てるか土地を探していた時、その教え子中野校長に上村君の父から、「息子が交通事故で亡くなった道路沿いの土地に歌碑を建ててください」と要望され、歌碑建立の運びとなったのである。昇地三郎氏が障害をもつ二人のご子息への思い、交通事故で息子を失った上村君の両親の思いが、「コスモス」という花を介して交叉したといえる。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね


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