丸亀地方は、高気圧に覆われて晴れていた。気温は13度から27度、湿度は85%から46%、風は1mから5mの北北東の風が一時強かった。明日の4日は、引き続き高気圧に覆われて晴れるけれど、夜は気圧の谷の接近で雲が広がる見込みなのだとか。
昨夜は弟の「たっくん」と0時半過ぎまで飲んで話し込んでいたが、朝の6時過ぎになると外が明るくなって寝ていられなくなって起きてしまった。弟はとっくに起きて散歩に行ってるらしかった。
今週がおまつりでないとしたら、ここに居ても仕方がないし、弟は昼前に高松まで行かないといけないとかで帰り支度をしている。じゃぁ、それならばと、8時35分発のフェリーボートで帰ることにした。
山の家にいると、島の家に行きたくなって仕方がないが、いざ、島の家に来てみると、することがなくなると、もう、早速に帰りたくて仕方がない。全く以て、不思議なことだ。これは旅行でもそうだし、親戚の家でも同じ事である。
この時間帯のフェリーには、50人ほどの乗客が乗っていた。病院に行ったり、買い物に行ったりする人たちである。少し前までは、島の西部、茂浦・市井・青木・甲路という地区からは「さちかぜ」という渡海船が出ていたが、船長さんが亡くなって航路は廃止されて、この備讃フェリーだけが島民の足代わりになっている。
丸亀沖・多度津沖にはたくさんの船が出ているが、もう、「イイダコ釣り」の時期なんだろうか。
一時期は、船が傾くほどのイイダコを釣ったことがあったが、年々、イイダコも減って、ひどいときには数匹程度しか釣れないこともあった。それだけ海も汚れたのだろうし、イイダコも減ったのだろう。ま、「釣れるぞ~」と聞かされると、みんなが一斉に船を出して小さいものまでねこそぎ釣り上げてしまう私たちの責任なんだろうけれど。
弟を丸亀で下ろして、時間がたっぷりとあるので、ここに行ってみた。高松市亀水(たるみ)町にある「瀬戸内海歴史民俗資料館」である。
ここで、海ゴミのあれこれ・・・というものを展示してああるというのでのぞいてみた。 かつて、瀬戸内海には多様な生物が棲み、海辺には神仏が漂着し、海藻や流木などの寄り物は燃料や生活材として利用されてきた。しかし、高度経済成長期には、工場排水や生活排水により水質汚染が進み、「瀕死の海」とまで呼ばれ、海の生物は大きな打撃を受けた。その後、瀬戸内法などの施行により水質 汚染は改善したものの、生活ごみなどによる海の汚染は今も続いている。
この展示会は、海底ごみや漂流ごみ、海岸ごみなどのいわゆる「海ごみ」の実態について知ってもらい、里海・瀬戸内海の環境を少しでも良くして次の世代に伝え ていくため、私たちに何ができるかを考えてもらう機会となるよう、特に小学校高学年を対象に企画した展示らしい。
なお、この展示は香川県海ごみ対策推進事業の一環として行うもので、県環境管理課の協力のもと企画展示するとともに、備讃瀬戸で長年にわたり海底ごみの調査研究や啓発活動に取り組んでいる山陽女子中学校・高等学校地歴部(岡山県)の活動成果についても紹介している。
海岸から2~4Kmの空き缶はまだ、色が残り形状も形が残されているが、
海岸から4Km以上離れた海底ゴミは減刑を留めないほどに変形し脱色している。浮遊ゴミで顕著な物はプラスチック製品や発泡スチロール製品であり、シャンプーやリンスなどの容器やディスポーザル・ライター、ゴルフボール、おもちゃ、ペットボトルなどのボトル類などが目立つ。中には注射針や浣腸薬の容器などが目を引いた。
私たちが何気なく捨てたゴミが、川に入り、海に流れ込んでしまう。私たちは韓国や中国からの浮遊物をよく目にするが、反対に、外国の人たちは日本製のゴミを目にしているのではないだろうか。そう思うと、適正にゴミや廃棄物を処理していかなければ・・・と、思ったことだった。
今日の掲示板はこれ。「もしこの時の苦しみを知ることがなかったら、私は増長したままで、どうしようもない人間になっていただろう」という、稲尾和久さんのことばから。「わずか21歳で「神様、仏様、稲尾様」と もてはやされたのですから、知らず知らずのうちに天狗の鼻は高くなっていったと思います。それをへし折り、野球ができることの喜び、させてもらえることへの感謝を教えてくれたのは、肩の故障でした。苦しんだ600日は、私にとっては人生最大の転機となったのです。」稲尾和久(プロ野球解説者)『致知』1998年12月号特集「人生の分岐点」より
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。