丸亀地方は高気圧に覆われて晴れていたが、午後は上空の気圧の谷が通過するため雲が広がってきた。気温は13度から24度、湿度は84%から58%、風は1mから4mの西南西の風が一時は強かった。明日の9日は、高気圧に覆われて晴れるらしいが、午後は気圧の谷が近づいてくるため、雲が広がりやすい見込みらしい。
今日のしわく広島は快晴。昨日はしっかりと佐柳島を歩いたので、ぐっすりと寝ることができた。
朝の8時からは裏庭部分の草刈と西側部分の草刈・・・。蔦(つた)というか葛(くず)というかが押し寄せてきているので、これを撃退。笹も少しずつ侵攻してきている。ここの草刈がほぼ一時間。
燃料が少し残っていたので、広島神社の草刈をやっておく。昔は人口も多かったせいか、ここの境内は広い。それが今は過疎化と高齢化のおかげで明日のお祭りの準備も20人あまり。やることは多いので、できることからコツコツと。これが、9時から10時まで。
昨日は佐柳島で咸臨丸乗り組み水夫の冨造さんのお墓におまいりしたが、それならば・・・ということで、今日はしわく広島の乗り組み水夫のお墓におまいりしてみようということで、ここにやってきた。しわく広島の東端にある「立石浦」にある真言宗寺院の「神光寺(しんこうじ)」さん。
これが、伴幸吉のお墓である。伊豆下田で破船、24人の水夫らが没死した。
同じく神光寺境内近くにある墓地には、同じく水主小頭の曽根仁作(量平)のお墓がある。榎本軍に加わり、咸臨丸で清水港に避難したが、官軍の砲弾を受けて死亡した。
こちらは江の浦の共同墓地にある鉄砲方水主の東国造のお墓。帰国後、小笠原探検にも従事した。
今度はぐんと飛んで、島の西部にある「青木浦」にある山下伊三郎のお墓である。同郷ということで、次の岡田源之助を看護し、死亡を確認後帰国し、小笠原探検にも従事した。
これがその岡田源之助のお墓。咸臨丸船内で病に倒れ、海軍病院で治療を受けたが万延元年三月三日に死亡し、サンフランシスコ・ローレルヒル墓地に埋葬された。
青木浦の高台から眺めた今日の佐柳島。白く見える屋根が「乗蓮寺」である。
次に向かったのが市井浦の共同墓地にある「向井仁助」の埋め墓である。ここには同じようなお墓が二つ並んでいる。どちらも向井仁助夫妻のお墓である。
こちらは、山手のお寺の墓地にある向井仁助らの拝み墓である。
午後からは庭木の剪定をやってみた。これでさっぱりとした。
今日の掲示板はこれ。「うれしい時も、悲しい時も、かけがえのない我が人生である。」というもの。世間一般的には人生が長いほうがより価値があるように言われたりするものだが、いのちというものが単に抽象的に長さだけで考えられてはならない。真に人間のいのちならば、長さのみならず幅もあれば深さもあるはずである。年齢を重ねれば、それだけ人生をよりよく見、経験するわけだから、それだけものわかりがいいはずなのに、反対に我が強くなり柔軟心に欠け、思い通りにならないと人生を嘆き、時には怒るなんてことが無きにしもあらず・・・・・やはり人は、いのちを空しく長さだけに生きるのではなく、いのちを深さにおいて生きることが大切なのではないだろうか。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。