さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雨が降っている。気温は12度から17度、湿度は88%から70%、風は1mから5mの南東の風が少しばかり。明日の14日は、四国沖を進む前線や湿った空気の影響で雨が降りやすいらしい。
今日は天気が悪いということで、またしても香川県立図書館へやってきた。来週いっぱいは防災工事のために休館になるらしい。だから、借りている本は返却しておかねばならない。
香川県立図書館は、1993年、旧高松空港跡地の香川インテリジェントパーク内に完成し、地下1階、地上4階で、開架22万冊、書庫100万冊に整備されている。隣には香川大学工学部がある。以前は中央公園横にあって、現在は香川国際交流会館(アイパル香川)として使われている。郷土資料には空海に関する資料だけでなく、津島洋書文庫、二山文庫、栂尾文庫などがある。
で、また、適当にみつくろってきたが、あんまり、参考になりそうな本ではなかった。左端の「四国遍礼霊場記」は、前回にも借りた本らしい。あんまり記憶に残っていないと、何度も何度も借りてしまう。
これは、国鉄の宇高連絡船の船長をしておられた萩原さんが、亡くなった奥さんの追悼のために四国遍路をした時のスケッチを元に作られた切り絵集である。右が八十五番札所八栗寺、左が八十六番札所志度寺である。切り絵で、こういう風景を描くというのは神業みたいに見える。
この二冊は、志度寺の観光ガイド用に選んだのだが、少しばかり難しそう・・・。
午前中はぽつりぽつりだった雨が、午後からは本降りになってきた。明日は「まちぶら探検隊」のガイドの日なのに、雨では楽しくはなれそうもないし、足下が悪くては歩くにも歩けない。いくら何でも、子供のようにてるてる坊主を作って吊す訳にもいかないではないか・・・。
さて、先日に、塩江美術館で見た写真の話の続き・・。この牛の一団は、「借耕牛(かりこうし)」と言った。夏と秋の農繁期に徳島の山間部の農家から農作業のために賃借りする牛のことである。古くは江戸時代の中期の文化年間(1804~1818)の頃から始まったといわれ、昭和30年代まで続いていた。
借耕牛は、徳島の山間部は草資源が多く牛を飼いやすく、反対に本県の平野部は水田が多く稲わら、麦わらは副業に使用するため、草資源に乏しく、牛を飼うのが容易でなかったなどの事情から行われるようになった。「馬喰(ばくろ)」という取次業者が中に入って契約を交わすのが普通で、期間は、夏秋作を通じ約80日ほどであった。
借耕牛の頭数は、多い時期には夏秋作を通じ約8,200頭。徳島からの経路は東から五名口、清水口、岩部口、美合口、塩入口、猪ノ鼻口、野呂内口、曼蛇口などであった。賃貸の時期には各峠の集合場は牛を追い上げ、追い下げる両県の農家でにぎわい、飲食店などが繁盛。讃岐山脈の峠を境に長く続いた借耕牛は、両県の農家経済に大きな恩恵をもたらしたという。代償は米で支払われていたが、その額は牛の大小、強弱、鍬の仕込み具合などによって相場が決められているので一頭ごとに異なり相場の幅があった。およそ1頭平均で夏作は米5斗5升(約83キロ)、秋作は米5斗(75キロ)、夏秋合計して1石5斗(158キロ)であった。借耕牛の習慣は、耕運機など農機具の普及とともに農家の需要が減少したため次第にすたれていき、現在では全く行われなくなった。
思い返せば、わが家でも牛を飼っていたし、その牛の草を刈るのが私ら子供の役目だった。それが、親父の死で、牛が使えなくなり、耕耘機の導入、トラクターの導入で牛の姿も消えた。そんな、思い出を噛みしめながら「借耕牛」の写真を眺めたものだった。
今日の掲示板はこれ。「どう もがいてもダメなときがある。手を合わせるしか方法がないときがある。本当の目が開くのはそのときである」という相田みつをさんの言葉から。確かに、どんなに頑張ってもダメな時ってあるもので、そんな時、あなたはどうしていただろうか。あっさりと、諦めてしまうだろうか。それとも、まだまだ頑張り続けるだろうか。私は気が短い方だから、あっさりと別の方法を探すようにしている。それを繰り返していたならば、やがてにはどうにかなってくるもの。試行錯誤の連続にはなるだろうけれど・・・。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。