さぬき市地方は気圧の谷や寒気の影響で瀬戸内側を中心に雲が広がり、弱い雨の降っている所があったし、みぞれらしきものも降ってきた。気温は2度から10度、湿度は88%から53%、風は1mから6mの西の風が冷たかった。明日の14日も、寒気の影響で雲が広がりやすいらしい。
朝から雨だと云うので、またもや納め札のデータ整理をやっていた。納め札というのはお遍路さんの名刺みたいなもので、各札所の本堂や大師堂、奥の院やお地蔵さんなどにも納めたりする紙札のことで、お接待を受けた方にもお渡しする。
私たちが調べている物は、お接待をしたお礼に頂いたものを、稲藁で作った小型の俵に詰めて、屋根裏などに吊して、火災予防の意味で飾ってあったもの。それを頂いてきて、中に詰まっていた納め札を整理・分類して調べているのである。これは「飯田家」にあったものの、出身地調査である。ここの家の場合、香川県人のお札が多い。その最後に、「朝鮮国」というのがあった。
その納め札には「朝鮮鎮海湾愛知○」とあって、「斎藤八重」とある。明治32年のことである。韓国慶尚南道からのお遍路さんであった。この地で働いている日本人が、お四国参りにおいでになったんだろうか。
ここのおうちの場合、徳島県が案外と少ないことに気付く。
毎年のことだが、今日、1月13日は「咸臨丸出航の日」とされている。万延元(1860)年のこの日、勝麟太郎(海舟)や福澤諭吉ら江戸幕府の遣米使節を乗せた軍艦「咸臨丸」が品川沖を出航した日とされている。(18日・19日の説もあり)
万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。咸臨丸はポーハタン号の別船として、旧暦1月13日に品川を出帆、旧暦1月19日に浦賀を出港、旧暦2月26日(太陽暦3月17日)にサンフランシスコに入港。艦長は勝麟太郎(正確には勝は「軍艦操練所教授方頭取」、木村摂津守は「軍艦奉行」であったが、通訳の中浜万次郎は勝が艦長、木村が提督との説明で押し通した。福沢諭吉らも乗船していた。(Wikipediaより)
お昼からはお天気がよくなってきたので、少しだけお出かけをしてきた。と言うのも、三本松のメガネのカワイさんの店長ブログに、上西小学校のことが出ていたように記憶しているので、そこを訪ねてみた。
高松市塩江町上西(かみにし)という地区にあるこの小学校は、明治8年に内場小学校として開校。その後、幾多の変遷を経て、昭和45年に上西小学校になった。そして、平成27年3月に廃校になった。
ここは鉄筋コンクリートの校舎だからとパスしていたのだけれど、
カワイさんのブログには、こうした木造校舎があったような気がしたのでやってきたのだが、ここには、木造校舎なんぞ、どこにもない。帰って調べてみたら、「上西中学校跡」だった。
http://kawaimegane.blog40.fc2.com/blog-entry-2579.html
ついでに、種田山頭火の句碑を確認するために行って来た。大窪寺の前の地獄谷という所の旧遍路道沿いにある小さな句碑である。「夜が長い 谷の瀬音 とほくもちかくも」と刻まれている。おそらく、この句碑は建立されてから、誰の目にも触れられていないと思う。そんな場所違いな所にひっそりとあるばかりの句碑である。
もう、この八丁石をたどるおへんろさんもいない筈。そんな枯れていたんでしまった旧遍路道であった。
今日の掲示板はこれ。「一年前の悩み事、言える人、いますか?」というもの。あぁ、そうだなぁ~。悩みのど真ん中にいるときは、不幸のどん底にいるような気分になるけれど、いつのまにか忘れてしまっているよなぁって思うことがあるもの。私も、一年前、左目の白内障という大きな山を抱えていて、不安の渦中にいた。でも、山を乗り越えてしまうと、悩みという者が杞憂だったことに気づかさる。そんな当たり前のことを、身をもって感じらたとき、悩みの内容というか深さが変わるのではないのだろうか。時間の経過が悩みを薄めてくれるとは言わないけれど、悩みの種というものは、いつまでも悩みの種として残ってはいるけれど、でも、あるときふと過去を振り返ったとき、「あれ?あんなに悩んでいたけど、いつのまにか気持ちが落ち着いていたなぁ」ってこともあるものだ。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。