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Channel: まほろば自然博物館
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花吹雪 風に任せて 今日を終え

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 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、夕方からは気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がるらしい。気温は8.6度から19度、湿度は96%から64%、風は0mから4mの東北東の風が少しばかり。明日の7日は、前線や湿った空気の影響で雨が降りやすく、昼前から夜のはじめ頃にかけては、雷を伴う所がある見込らしい。

 

 明日が雨で、今日が最後のお花見日和だとニュースでは言っていたが、はてさて、今日はどこへ行こうかと考えながら走っていた。今日の目的は、昨日、借りて来た長尾町史の中の「小西家」の調査をする筈だったのだが。

 

 日光の関係で、いい絵が撮れなかったので、作戦変更して「静御前」を偲ぶ旅になった。まずは、87番札所にある、「静御前剃髪塚」からである。静御前は義経の死後、悲しい思い出を断ち切るため、母の磯野禅師の故郷、大内郷小磯に戻ってきた。そこでしばらく滞在したが、義経と殺された我が子の菩提を弔うために、長尾寺で剃髪して「宥心尼」となった。

 

 ここで、義経の思い出を断ち切るために宝物である「初音の鼓(つづみ)」を流したとされる「鼓淵」である。昔はここに川があったのだろう。今は細い水路があるばかり。

 

 ま、こういう名品であったようだが、「静」は、全ての思い出と決別する気で鼓を投げ捨てたのだろう。もはや、尼の身に鼓など不要であったのかも知れない。

 

 その後、母の磯野禅師は疲れと寒さのために倒れ、そのままここで亡くなった。

 

 道路に面した大きな石碑の裏手に、小さな石塔があるが、これが、磯野のお墓である。ご近所の方がお水とお花を供え続けているらしい。そこから少し西に進むと木田郡三木町に入る。川沿いに南に進んでしばらく行くと、山の手に大きな池が見えて来る。さらに進むと「鍛冶池」という池がある。

 

 その池の西側の土手にこのような建物が見えて来る。ここが「靜薬師」という庵跡で、ここに「宥心尼」が住んで、義経とその子供の供養のために念仏三昧をしていたという。

 

 中央にある小さな黒い厨子が、義経からもらった薬師如来である。

 

 特別公開。こういう薬師如来座像である。研修の時の物。普通には見ることはできない。

 

 庵の入り口にある案内看板である。

 

  その後、京から侍女の琴路(ことじ)もやってきて世話をしたらしいが、靜は病のために24才の若さで亡くなったという。侍女の琴路も七日後に、この池に入って亡くなったという。

 

 これが、静御前のお墓だと言われているもの。

 

 これが、侍女琴路のお墓だとされるもの。

 

 これは平家によって殺された義経の子のお墓とされるもの。新しいお墓だが、新しく作り直されたと考えておこう・・・。この庵は、屋島の合戦で義経の身代わりとなって亡くなった佐藤継信の子孫によって大切にお守りされていると聞いた。

 

 今日のお昼はここ。もう、最後のお花見。すっかりと葉桜になってきた県営大川ダムのダム公園での一人花見。今日の朝ドラではないが、おにぎり弁当。私も、あと何回のお花見ができ、何年、桜の花が見られるのだろう。

 

 今日の掲示板はこれ。「逝く空に 桜の花があれば佳し」という三波春夫の辞世の句である。平成12年12月上旬に東京都内の病院に入院。翌平成13年2月初旬のこと、都内でも大雪になり、三波は病床で「ふるさとを見せてやろうと窓の雪」との句を詠んだ。それを聞いた当時マネージャーだった娘・美夕紀が「辞世の句かしら」と問いかけると、三波は「そうかもな」と少し元気なく答え、続けて「逝く空に 桜の花が あれば佳し」とも詠んだ。美夕紀は「桜の花が咲くと一緒に永眠するのか」と思ったという。そして奇しくも同年、桜の時期の4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去。77歳没。病名告知以降、手術はせずに投薬治療を選択。最期まで苦しむ事はなかったという。死去の3日程前から眠っている状態だった が、息を引き取る2時間前に目を開き、妻に語りかけた「本当にたくさんの歌を一緒に作ったね。ママ、ありがとう。幸せだった…」が最期の言葉だった。(Wikipediaより)

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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