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Channel: まほろば自然博物館
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廃校の 静けさの中 野にあざみ

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 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れている。気温は16.3度から26.2度、湿度は91%から72%、風は1mから2mの北東の風が少しばかり。明日の23日は引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 いい天気になったが、今日は何の予定も入っていないが、奥方が居るものだから出かけられない。もしも出かけようとすると「どこに行くの?」「連れて行ってよ~」と言い出すのも面倒なもの。

 

 だから、昨日の続きで、田淵家の納め札に書かれた「四文字熟語」の「願文」を調べていた。この場合は字が間違っているのだが、「国家泰平・国家安全」の意味だろうと推測する。それを、別のマシンに整理していく。

 

 そうこうしていると、三番目の弟の「たっくん」がふらりとやってきた。やがて、「山の家とかに行ってみるかい・・」というので一緒に行くことにした。わが家にいてもつまらない。

 

 で、山の旧宅の草刈りの跡を見てもらったり、公園(?)予定地の草刈り跡も見てもらった。

 

 その後、88番札所の大窪寺に行ったが、10時半過ぎでは、まだ、おうどんタイムにはならない。今日は日曜日ということもあって大勢のお遍路さんがお参りに来ていたが、「閏年の逆打ち」らしき人には出会わなかった。

 

 そこで、ここに寄ってみた。旧多和小学校跡である。ここは「土曜日曜休日」しかやっていない博物館である。元日銀高松支店長の村山昇作さん(66)ら天文愛好家が「一般社団法人天体望遠鏡博物館」を2010年に立ち上げた。現在は全国に約30人のメンバーがいる。市町村合併の影響で閉鎖した天文台や家庭から望遠鏡を託された人たちで、古いものの修理も手がけていた。村山さんは「古い望遠鏡を残して科学少年少女を育てたい」と博物館の場所を探していた。12年に廃校になったさぬき市の多和小学校の校舎が使えることになった。(朝日新聞デジタルニュースから)

 

 山村にある校舎は街の明かりからも離れ、天体観測に適している。市が耐震工事費用を負担し、地元の人たちが床の塗装を手伝った。2階の教室に小型望遠鏡を並べ、屋内プールを改修し、大型望遠鏡の展示室にした。ここが、元屋内プールだった場所。プールの上に床を敷いて、望遠鏡を展示してある。

 

 前回はイベント途中だったために、大型望遠鏡しか見学しなかったが、今日は11時からの1時間コースの見学となった。ここはスライド・ルーフの可動式天井が開いて天体観測ができる部屋。

 

 ここでは特殊フィルターを装着した望遠鏡を使っての太陽の観測。太陽の黒点とかコロナなんぞが観測できた。普通の望遠鏡では絶対に真似しないこと。失明すること間違いなしとのことだった。

 

 二階の元教室に入るとびっくり仰天。ものすごい数の望遠鏡が・・・。それぞれ、お役目が済んだ望遠鏡が各地から送られてきているのだとか。ここの望遠鏡の総数は200台以上だとか。

 

 ここで、望遠鏡と天体望遠鏡の違いについてのお話を伺った。それと、「リユース」についてお話も。「3R」という言葉は早くから聞いていたが、ここで、「リ・ユース」のお話を聞くことになろうとは。ちなみに、3Rは、Reduce(リデュース)、Reuse(リユース)、Recycle(リサイクル)の3つの英語の頭文字を表している。ここは、校舎を「リユース」して博物館に、リタイヤした望遠鏡を「リユース」して天体望遠鏡に使い直し(再使用)ているのである。

 

 これは「百武彗星」を発見した百武先生が使っていた大型双眼鏡。これで彗星を見つけたのだという。こういうものがドカーン、ドカーンと置いてある。

 

 ちょうどお昼になったので、校庭に作られた「農家食堂」で「しっぽくそば」を食べることにした。ここには、このメニューしかないのだそうだ。

 

 これが、その「しっぽくそば」。これからは暑くなるのだから、冷たいものも用意しておいて欲しいもの。しかしのかかし、この大根の大きさはどうだ。大根だけでおなかがふくれるほど。

 

 おそばというもの食べた記憶がないのだが、これがおそばというものなのか・・・と思った。おそばはツルツルと飲み込むものだと思ったが、これはお箸でつまむと切れてしまう。不思議な食べ物だった。おそらくザルそばにすると、お箸ではつまめないので、お出汁には入らないだろうと思う。

 

 お昼からも、納め札に書かれた「四文字熟語」を整理していた。今日は101番から500番までの400枚を読み取ったことになる。やはり、圧倒的に「天下泰平・国家安全」がダントツだった。

 

 今日の掲示板はこれ。「迷いとは 心が二つになること 悟りとは 心が一つになること」というもの。誰の言葉だかはわからない。心が、今の自分と、何か聞こえてきたものを追いかけて、2つになってしまったら、これが「迷い」となる。ものを追いかけるから迷いとなる。右に行くか左に行くか、これがいいか、あれがいいかと心が揺らぐと迷いとなる。これに気づかないと、本質を見失ってしまい、デザインの美しさにとらわれたり、値段を追い回したりして迷うのである。そこで、いったんは、外に向かってはたらく心を断ち切って、自分の内に向ける工夫が大事になる。そうすれば、今、こうして見ているもの、聞いているもの、命あるものの尊さに気がついて、自然と眼に花が映ったとき、花はわが命と一つであるとわかるはず。心が一つになるのが悟りであると気づくのである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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