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Channel: まほろば自然博物館
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あきあかね ぐうたら午後を 見て通る

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 さぬき市地方は台風第18号が山陰沖を東北東に進む影響で、曇りで時々雨が降ってきたし、大気の状態が不安定となるため、雷が通り過ぎる賑やかな時間があった。気温は22.3度から28.8度、湿度は84%から70%、風は2mから5mの南南西の風が少しばかり。明日の6日は、湿った空気の影響で概ね曇るらしい。

 

 台風の影響で、今日一日中曇ったままで、夕方には雷がゴロゴロと賑やかだった。

 

 昨日、つかさの会の渡邊会長から、「娘遍路についての論文を提出せよ」とのオーダーを頂いた。この笠に「さ」の字を入れたものは讃岐の国の伊吹島の娘遍路である。伊吹島というのは観音寺市の西にある小さな島で、「イリコ」で有名な島である。昔は、嫁入り前の修養として、みんな、四国遍路に出たものだという。後方に二人の男性がいるが、会計・宿取り・納経取り・護衛警護役である。

 

 伊吹島(いぶきじま)は、香川縣観音寺市に属する島。瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)にある伊吹島は、観音寺港より西10kmに位置し、周囲は5.4kmで有人島としては香川県西端となる。江戸時代以前からの四季折々の民俗 宗教行事が続けられており、良好ないりこ(煮干しいわし)の産地として有名。島内の電気や上水道は、ともに本土より供給されており、島の南側の真浦港からは定期船が就航している。

 

 で、私たちが調査している、寒川家・飯田家・田淵家と、その他の研究を付き合わせてみたら、こういう数字になった。どの家のものも、二千枚ほどの遍路札の中のこれだけだから、決して多い数字ではない。

 

 このうちの、真鍋島や六島は岡山県笠岡市に属する島々である。これらの島から、讃岐と伊予の二国巡拝のおへんろさんである。

 

 この西備讃瀬戸の海域からは、粟島やその横の志々島、佐柳島、広島、本島からのお遍路さんは確認できたが、高見島からのお遍路は見つからなかった。

 

 嫁入り前の女性も一度は遍路を体験しなくてはならないという習慣は、江戸時代から戦前まで各地に見られた。昔の人の話によれば菜の花の咲く三月の初め、赤色の錫杖を持った老人の「先達」に連れられた十数名の娘たちが遍路道を歩いている姿は、四国の春の風物詩であった。とくに目を引いたのは、毎年訪れる腰巻き、手っ甲、脚絆、手拭い、などもすべて藍色に染め抜いた揃いの遍路姿をした「讃岐の伊吹島の娘遍路」や、伊予ガスリを着た、「宇和島の娘遍路」の一団だったそうである。

 

 しかし、こうした娘遍路も、昭和16年を最後に途絶えてしまった。太平洋戦争に突入してからは遍路どころではなかったし、物資がなくなればお接待もできず、また、受けることもままならず、四国遍路は衰退してしまった。終戦後、四国遍路は復活したが、なぜか、娘遍路は復活しなかった。そこにはどんな事情があったのだろうか。

 

 最近では嫁入り道具の一つとして学歴や職歴、各種資格などがあるが、かつては遍路に行った「しるし」である納経帳を持っている娘は、信仰心が厚い証拠であり、肉体的にも健康で、遍路をしたことにより忍耐強くなり人間ができているとして、嫁をもらう側からも歓迎されていたという。

 

 その為に嫁入り前に遍路をさせるという習慣は、単に四国地方ばかりでなく、四国対岸の山陽道の諸国にも見られた。また縁談を断る際に「うちの娘はまだ遍路に行かせていませんから」というのは、相手に害のない口実でもあった。その当時遍路に行くことが、一人前の女性の資格と見なされていたからであった。

 

 女性にとって千二百キロの険しい道を、六十日から九十日かけて歩き通すのはたいへんなことで、しかもその当時、食事付きの旅籠は一部の城下町を除いては皆無であった。そのため、一泊につき六、七文の木賃宿に泊まり、道中で買い求めた食糧で煮炊きをする不便さにも耐えねばならなかった。

 

 格安の遍路宿ではセンベイ布団で雑魚寝をさせられ、垢で濁った風呂にも入らねばならず、裕福な家庭で育った乳母日傘の箱入り娘にとっては、巡礼の旅は世間の現実である貧困生活を自分の肌で体験する機会でもあったのである。また娘達にとっても、一時的にせよ親の庇護や生まれ故郷から遠く離れて、広く世間の様子を知る絶好の機会でもあり、道中での困苦欠乏、苦難に耐える精神修養や修行の場でもあった。

 

 それなのに、平和で物の豊かな時代になったのに、「娘遍路」は復活しなかった。それはなぜなのだろうか・・・。

 

 今日の掲示板はこれ。「苦しみをなげく人あり 苦しみを活かす人あり」というもの。これまた、町内の善楽寺さんの掲示板から。これまた、どこのどなたの言葉かはわからないのだが、過去に起きた不運な出来事は、すでに過ぎてしまった仕方ないことである。それをいつまでも引きずり、苦しみを背負い続けるか、それとも、それを活かして人のために役立たせるか、その発想には人生のつくられ方がまったく逆になることだろう。大切な一度きりの人生をしっかり見据え、考え、生き方を選択したいものである。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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