さぬき市地方は、瀬戸内側では気圧の谷や寒気の影響で概ね曇りで、午後からは高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は3.9度から9.1度、湿度は80%から64%、風は2mから4mの西北西の風が少しばかり。明日の25日は、高気圧に覆われて概ね晴れるらしい。
なんとなくあたりは春めいてきたように思う。ま、三寒四温などという時期がやってくるのだろうけれど。
図書館で借りてきた「長尾町史」から娘遍路やお接待、へんろみちなどを調べていたら・・・
こういうお坊さんが目についた。四国霊場87番札所、長尾寺さんの十五代住職を務めた「村岡俊嶽大僧正」さんである。
これが、その村岡大僧正のお墓である。
お墓には、こんな文字が刻んである。つまり・・・、村岡俊嶽師は、明治十一年南鴨村(多度津)村岡亀太郎の二男に生まれ、のち長尾寺に入り高田俊興の弟子となり、ついで第十五世住職となった。日露戦争で中絶していた大会陽を復活し、
同四五年から大鏡力もちをはじめ境内南にあった墓地を現在地に移転し、
境内を拡張して、参道に石を敷き、大師堂を再建し、
客殿を修復するなど寺の面目を一新したほか、天台宗三井寺の要職も兼ね、四国霊場会、郡仏教会の役員や会長をつとめ長尾寺および仏教界の興隆に著しい貢献をした。また、自蔵園楠蔭と号して俳借をよくし、ことに長尾俳壇の中心として、いまにその流れを汲む者山下抱月をはじめ数多く、その命日には楠蔭忌として句会が続けられている。昭和三二年三月五日八〇歳で入寂。庭園には、「春風や 人あるかぎり いろは歌 楠蔭」という句碑がある。
境内には大僧正の「頌徳碑」が建てられている。
この門は、高松市栗林公園の北側にあった正門として、廷享年間に建築され、カイの口御門と名付けられた。「カイの口」とは、中国語で幽谷への入口を意味する。大正2年この門が改築されることになった時、当時の長尾寺村岡俊嶽僧正が門の原型をそこなわないという約束で払下げをうけ、忠実に再現したもので昔は長尾寺の正門であった。
帰り道、ふと、思いついて、町内にある「雨滝自然科学館」に寄ってみた。この施設は、雨滝森林浴公園内にあって、自然の中で文化・自然が学べる体験型環境学習施設。室内外で自由に活動できるので、子供たちが主体的に五感を使い、楽しく遊びながら歴史文化などを学ぶことができるもの。
少し前にテレビなどで紹介されていた、「シロナマコ」である。幸せを呼ぶかどうかは定かでないが、10万匹に1匹の割合で突然変異で現れるものらしい。近くの津田湾で捕獲され、寄贈されたものである。
正式名称は「マナマコ」と言うらしい。こうした突然変異は白ヘビや白カエルのように他の生物でも現れるらしい。
ここの、この水槽には、この四種類のナマコがいて、三年前に捕獲されたシロナマコも生きて動いていた。
今日の掲示板はこれ。「いちばん身近な人のおかげが見えないようでは幸せにはめぐりあえない」という町内の善楽寺さんの掲示板にあった東井義雄先生の言葉から。東井先生が二十五歳の時、ある児童の質問のおかげで、自分の力で生きているつもりだったが、生かされて生きていたことに気付かれたそうだ。これが東井先生の第二の誕生であるといわれている。これを機に、ものの見方が変わった先生は後年、「同年輩や若い後輩の先生方にずいぶん育てて もらった。」「人格、識見、実力ともに抜群な教頭先生に恵まれ、ゆるしてもらいカバーしてもらったおかげで(三つの学校の校長として)勤めることができ た」と述べられている。また、いくつかの書物でも身近な人の恵みを語っておられる。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。