さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、気圧の谷の影響で曇っている所もあった。気温は15.6度から23.7度、湿度は78%から54&、風は2mから6mの西南西の風が少しばかり。明日の16日は高気圧に覆われて晴れるけれど、昼過ぎからは気圧の谷の影響で時々曇る見込みらしい。
この日曜日(5月21日)に、87番長尾寺と88番大窪寺のガイドをせよ・・というミッションが組まれた。私たちは「お先達さん」ではないので、お寺のガイドはしないことになっている。では、長尾寺のどこをガイドすればいいのか・・・。
まずは、山門前にあるこれ。「経幢2基」である。石造で、西側のものが弘安6年(1283)、東側のものが弘安9年(1286)の建立。
一、(鎌倉男児)
四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る /十万余騎の敵 /国難ここに見る /弘安四年夏の頃 /なんぞ怖れんわれに /鎌倉男子あり /正義武断の名 /一喝して世に示す
という、元寇の時のものである。
次にこの人である。四国霊場87番札所、長尾寺さんの十五代住職を務めた「村岡俊嶽大僧正」さんである。村岡師は、明治十一年南鴨村(多度津)村岡亀太郎の二男に生まれ、のち長尾寺に入り高田俊興の弟子となり、ついで第十五世住職となった。日露戦争で中絶していた大会陽を復活し、同四五年から大鏡力もちをはじめ境内南にあった墓地を現在地に移転し、境内を拡張して、参道に石を敷き、大師堂を再建し、客殿を修復するなど寺の面目を一新したほか、天台宗三井寺の要職も兼ね、四国霊場会、郡仏教会の役員や会長をつとめ長尾寺および仏教界の興隆に著しい貢献をした。
また、自蔵園楠蔭と号して俳借をよくし、ことに長尾俳壇の中心として、いまにその流れを汲む者山下抱月をはじめ数多く、その命日には楠蔭忌として句会が続けられている。昭和三二年三月五日八〇歳で入寂。庭園には、「春風や 人あるかぎり いろは歌 楠蔭」という句碑がある。
本堂の向拝にある、この彫刻、チューラパンタカのお話である。周利槃特は釈迦の弟子中、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられ、「塵を払わん、垢を除かん・・」と唱えさせ、精舎(もしくは比丘衆の履物とも)を払浄せしめた。彼はそれにより、落とすべき汚れとは、貪(rāga)、瞋(dveṣa) 、痴(moha)という心の汚れだと悟り、すべての煩悩を滅して、阿羅漢果を得たとされる。そして、やがてには十大弟子の一人周利槃特になったといわれる。
で、こちらは「靜御前剃髪塚」である。ここで、靜御前の悲話を一席ぶつ・・・。あと、山頭火の句碑のおはなしとかも。20分はあっという間で終わる。
できたら天神さん、菅原道真公のお話もできたらいいが・・・。
ついでに大窪寺さんにも寄ってみたが、こちらはお話しすることがいっぱいありすぎる。
これとか、あれとか・・・・。
これも、あれも・・・。20分では話しきれないことばかり。そうそう、「ぶっちょうづら」もあったし。
深緑がきれいだなぁと、ぼんやりとしていた。そうそう、山頭火の句碑もあるし。
午後からは、担当区域内パトロール・ウォーキングをやっていた。入院して、退院後は娘さん宅に引き取られる方が一人と、退院後は施設に入ることになる家庭が一つと、だんだんと寂しくなる一方・・・。
そういうものもチェックしておく。
そしたら、また、この娘さん・・・。車にはねられる恐れがないので、そのままにしておいたら、1時間後にはいなくなっていた。何なんだろうかねぇ・・。
今日の掲示板はこれ。「まっすぐな木はまっすぐ使え 曲がった木は曲がったまま生かせ」という、いつもの荒了寛さんの言葉から。大工さんの基本中の基本の言葉。「上下を逆にはするな 木目を生かせ」。それは人間にも同じだろうし、金属でも同じ事かも知れない。しかし、世の中には不遇な人がいるもので、曲がった木は役に立たぬと捨てられてしまう。二宮忠八もその一人。「戦時中だから・・」と、言われ、「衛生兵の考えることではない」と却下もされた。ようやくに自費で飛行機を作り上げた時、すでにライト兄弟に先を越されていた。
じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。