4月25日(水曜日)曇り晴れ 114-59-70 36.3 98% 62.25Kg
朝、ドクターが、「今日は外出するんですかね・・」というので、「するんです・・・」と、渡りに船だった。「ま、いつでもいいんですが、胸の水を抜いておきたいもので・・」とドクターがいう。「そんなに溜まってるんですかね」と聞くと、「ええ、けっこう・・」という。やっぱり、胸水はたまってくるんだ・・・。こんなことでは連休にも帰れない。
「ドクター許可済み」で外出届を書いた。銀行で当座のお小遣いと通帳記載。入院費用は掛かるが、お小遣いは減らない。病院にいると出費はしない。お茶代か自販機の飲み物ぐらいなものだ。
四電のPR誌用のデータとして、私の著作の生データが欲しいというので、メモリーに移して郵送した。私の作品に「著作権」などはない。もともとが私のものではないし、私はそれを並べたり少し意見を書いたくらいなものだ。
島の自治会長さんには、「英国士官レキ研究資料」を作るように言われていたので、送ろうとすると、原本がない。印刷・製本されたものは何冊かあるのだが、原紙がない。原紙がないと印刷するのに困る。製本したものを解体するかコピーするかだ。それもまた、面倒。
病院に、このPCを持ってくるときに、「今更、レキなんか・・・」と、フォルダーごと消してしまったのかもしれない。印刷したデータがどこにも見当たらないのだ。私の人生、こんなことばかり。
銀行にもよって、通帳記載してきた。何も働かないのに、出費ばかりが増えていく。ケーブルテレビ代、電話料金代(これもドコモのカード払いになった)、電気代、ガス代・・・。
で、昔のレキ研究の資料なんぞが入った資料なんぞを郵送する準備なんぞをいている間に、大切な私の頭脳ともいうべきHDDを忘れて病院に戻ってしまった。医大では、PCもなにもなくても生活できたのに、PCだけあって、HDDがないというのは、何も映らないテレビだけがあるようなものでむなしいものだ。ましてやネットにつながらないPCなんて・・・。
今日の掲示板はこれ。「かけがえのない自分の人生を そのまま受け取れない自分がいる」という、いつもの赤松先生のお寺の掲示板から。二階堂行邦(にかいどう・ゆきくに)1930年、京都生まれの先生のお言葉である。『同朋』2002年9月号「真宗シリーズ」(東本願寺出版部)から。人はこの世に生まれた限りは、必ず死を迎える時が来る。誰一人として死を避けることはできないし、人生に代理人はあり得ない。しかし、私自身そうした人生 の無常性を感じながらも、どこかで自分だけは特別であり、例外であると思っている。いつも死を日常から遠ざけて、生に執着し続けている。代わってもらうこ とができない人生であるにもかかわらず、欲求ばかりが先行し、自分自身をそのままを引き受けることができずにいる。まさに「わかったつもり」でいることの 無明性から抜け出せない私がいるのである。私が「いつ死んでもよい」と覚悟をきめるものでもなく、思案をつけるのでもなく、かけがえのない人生にたいする まことの目覚めを持たない、あくまでそのような私のためにこそ思案をつけてくださった仏さまのお手回しにうなずき、ただおまかせしていくほかないと気づかされるのである。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。