さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、梅雨前線が北上してくるため夕方から曇り、雨や雷雨となる所があるらしい。気温は23.5度から29.7度、湿度は94%から78%、風は1mから3mの東の風が少しばかり。明日の18日の香川県は、梅雨前線や湿った空気の影響で曇り、昼過ぎから雨で雷を伴う所がある見込みらしい。
110/49/58 36.4c-93% 63.2Kg 1011hPs,24c,90% 体調に変化は無いが、身体が重たい感じが少しばかり。
朝、ふと見ると、迷犬ごんがいない・・・。ワイヤーが切れて徘徊を始めたらしい。
犬はすぐに見つかった。我が家の玄関先で、「エサをちょうだい・・」と言うとるみたい。
奥方は、「また、サルがトマトを食べたわよ!」と騒いでいるが、どこから侵入したのかを調査中。奥方は、健康診断があるからと出かけていった。
そうは言うても、こんなにキュウリが取れたのは久しぶり。サルにすれば、こんなキュウリはまだ目に入らぬらしい。色の付いたトマトが目に付いた様子。
とにかく、今年は朝からキュウリ、昼にもキュウリ、晩にはキュウリずくめの食卓で、やや、うんざり気味。
さて、昨日の志度寺さんでのお話である。この本堂の外陣(げじん)の西の端に・・・。
こんなものが、東に向いて飾ってある。人呼んで「肉付きの面」と言うものらしい。目は凄く、口は裂け、青白い顔に角が生え、おんぼろ髪を前にたらし、口からは不気味な舌をのぞかせ、見るからに恐ろしい形相をしている。
その昔、志度に根性の悪い婆さんが居た。息子を嫁に取られたからか今でもあることだが、とにかく分からず屋のいじわる婆さんであった。 こんなむつかしい姑(しゅうとめ)の下に仕えて、何一つ逆らうことなく、はいはいと働いている嫁は信仰心が厚く、まだ人の起きない内に志度寺に参拝し「今日は姑に気に入ってもらえますように」と、観音様にお祈りしていた。この事を知った姑は「私が早く死ぬようにと、そんな祈願をして居るのだろう」と邪推し、この憎い嫁が二度と寺参りをしない様に、一つ懲らしめてやろうと悪心を起したのである。
あくる朝、嫁より早めに起きて、隠してあった「般若(はんにゃ)の面」をかむり、まだ薄暗い寺の門で嫁の来るのを待ち構えていた。嫁は観音様の導きがあっての事か、その朝に限ってお寺へは参らなかった。姑は仕方なく、かむっていた面を脱ごうとしたが、顔が引っ付いて取る事が出来ない。住職や駆けつけた人達で無理に脱がすと、姑の顔面が剥がれて、面にくっ付いていたと言う話である。
似たような話があった。福井県の吉崎御坊の願慶寺に伝わるお話である。昔、吉崎寺の村に清という信心深い女が住んでいた。清は夫と子供に先立たれ、姑のおもとというお婆さんと暮らしていた。清は毎日熱心に吉崎寺に通って、亡くした家族を弔っていた。しかしおもとはそれが気に入らない。村人からも親しまれ、けなげに生活する清が良い人ぶっているようで、憎くて憎くて仕方なかったのである。
清に一泡吹かせるにはどうしたらよいか? おもとは家に伝わる鬼女の面をかぶって嫁を怖がらせてやろうと思いついたのである。そして清が吉崎寺に詣でるのを先回りして、面をつけて髪を振り乱して清の前に飛び出した。清は驚いたものの「食(は)まば食め、喰(くら)わば喰らえ金剛の、他力の信はよもや食むまじ」と念仏を唱えながら逃げたのである。おもとも正体がばれては大変と、家に飛んで帰ったことである。
家に着いて、面をはずそうとするおもと。けれども面は全く顔からはずれない。無理に外そうとすると顔の皮、肉がそげてしまうような痛みが走ってしまう。そこへ嫁の清が帰ってきて、鬼女の面をかぶった姑に驚く清。おもとが涙ながらに訳を話すと、清は「南無阿陀仏」と心から唱えなさいと勧めました。念仏を唱えると、なんと面はぽろりと顔からはずれたのである。以後おもとは清とともに熱心に仏を信心するようになったのであった。
この話にも、いろんなバージョンがあるようだが、各地には、似たようなお話があるものだと感心したことだった。
今日の掲示板はこれ。「何が起こるかわからないのが世の中 何をしでかすのかわからないのが自分」というもの。つくづく自分への自戒の意味も込めて。意味は少し違うけれど、「諸行無常」という言葉がある。仏教から生まれた四文字熟語で、「諸行」は、この世の一切の事物や現象。「無常」は、この世の中の一切のものは常に移り変わり、永遠不変のものはないということから、この世のいっさいの現象は常に変化・消滅して絶えないという意味である。人生は諸行無常だと言われてきた。 何ひとつとして同じ状態が保たれるということは絶対になく、毎日、毎日が変化しているので、何時、何が起こるかわからない。世界各地で思わぬことが起きている現代。 たとえば、今が不幸な出来事があっても、その状態が一生、不変に続くことはなく、逆に幸せな出来事でも、その状態が一生不変に続くことはありえないのだと心得ておくべきだと教えてくれているのである。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。