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Channel: まほろば自然博物館
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長梅雨に カサブランカも 下向いて

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 さぬき市地方は梅雨前線や湿った空気の影響で断続的に雨となり、雷を伴う所があったらしい。気温は23度から25度、湿度は92%から96%、風は0mから3mの東南東の風が少しばかり。明日の20日の香川県は、台風第5号周辺の湿った空気の影響で断続的に雨や雷雨となる見込みらしい。

 

 106/53/59 36.3c-92% 64.3Kg 1012hPa,25c,80% だんだんと体重が増えていく。トイレに行く回数はかわらんのだけれど。雨と湿気のせいで運動不足かも知れない。

 

 今日は終日雨だった。奥方もお休みだが、さすがに野菜畑には入れない。私のオバカ指数も高く高くなりつつある。

 

 さて、昨日の出前講座の時、前田ガイドが、この遍路の白衣はいつからこうなったのかを話していたが、その時に、昭和28年からの伊予鉄バスが遍路バスを運行しはじめてから・・・と話したのだが、いささか耳障りに聞こえた。そこで再確認のために資料を調べてみた。

 

 一般的には、このように、「死に装束」だと書いてある。遍路が亡くなれば、死に装束のまま埋葬し、菅笠が天蓋になり、杖が墓標になると説明しているし、私たちもそのようにガイドしてきた。

 

 しかしのかかし、江戸時代前期の貞享四年(1687)に刊行された真念の「四國徧禮道指南」には白衣のことには触れていない。つまり、その頃には白い衣は着ていなかったことになる。

 

 その後に出た、寂本の「へんろ功徳記」にも出てこない。

 

 江戸時代には、普通の服装で旅をしていたことになる。

 

 大正10年の遍路でも白衣なんぞは着ていない。

 

 昭和28年に初めて伊予鉄が遍路バスを始めたが、まだ誰も白衣なんぞ着てはいない。

 

 これが昭和33年の伊予鉄おへんろバスである。ここに来て、全員が白衣姿になっている。つまり、おへんろバスによって、今の白衣姿が流行し始めたことになる。右端の二人は乗務員であり、中央左寄りの黒衣はお先達の住職さんである。

 

 だから、今日のこのスタイルは戦後の30年代から40年代ごろから定着したものと思われる。

 

 ただ、要素として、西国巡礼が使っていた「笈摺(おいずる)」が四国にも流入してきて、それが行者や修行者たちに及んだ可能性は考えられる。

 

 この背書きが変化して、「南無大師遍照金剛」になり、同行二人が定着したと考えられる。

 

 今日の掲示板はこれ。「自分は手を出さないで 人のやったことに口を出すな」という荒了寛さんのカレンダーの言葉から。嫌と言うほどこの言葉の例を見て来た。自分は逃げてばかりで仕事にも企画にも参加せずにいて、私の成果に対してあれこれと口出しをする上司や同僚がいた。 私が成果をあげるとやっかみになったし、そんなものはおれにもできるさとうそぶいた。実際、支店長に言われて、やると言って手を挙げたら部長から電話がかかってきた!「やる言うたんか!勝手にやるんやな!」と一方的に言われて電話を切られた。なんとか友人らの努力により何とかなりそうになると、とたんに手のひらを返したようになった。『手柄は自分の物!ミスは部下のせい!』 そう言う人間に限ってそういう事を言いだしたもの。同じような格言は一杯ある。自分はそんな事をしないでおこうと思っていたが、それができないままに定年退職になった・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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