さぬき市地方は湿った空気の影響で雨が降り、雷を伴う所があるらしい。気温は25度から28.7度、湿度は91%から74%、風は1mから4mの東南東の風が少しばかり。高温が予想されるため、熱中症など健康管理に注意するよう呼びかけている。明日の21日の香川県は、湿った空気の影響で曇り、未明は雨の降る所がある見込みなのだとか。
114/48/58 36.4c-98% 64.6Kg 1012hPa,26c,68% 数字的には問題ないが、湿気が多いせいか呼吸が重たい感じがする。じっとしていれば問題は無い。
ここは、屋島寺と八栗寺の間にある「洲崎寺」である。高松市牟礼町という場所にある。昔の源平の古戦場跡で、多くの負傷者が運び込まれた寺としても知られている。
ここに、かの有名な「四国遍路道指南(しるべ)」の著者、高野聖だった「真念」さんのお墓がある。真念法師の墓は昭和48年(1973)牟礼町塩屋南三昧の共同墓地で発見され、昭和55年(1980)現在地。洲崎寺に移され整備されたもの。
こういう碑もある。
その中に、「(四国遍路は)惣じて足半(あしなか)にてつとむべしといいつたへたり。草鞋(わらじ)は札所ごとに手水なき事有て手を汚すゆへに、但草履わらうつにても苦しからず」と述べる。要するに「草鞋(わらじ)は手水なき札所もあるから、紐を縛り直したりすると手が汚れてしまう。草履(ぞうり)だと手が汚れない」の意である。足半は草鞋に比べると履きやすく、予備品としても手軽であった。よって長道中の四国遍路においては、足半草履で通すのがよろしいというのである。
これが、その「足半(あしなか)草履」である。近年はまた、健康のために静かなブームになっているという。見ての通り、草履の後ろ半分がない。
だから、かかとは地面についている。
かの西郷さんも足半草履を愛用していたという。またこの草履は江戸期のみならず、令和の現在でも長良川(犬山)の鵜匠が用いている。水垢や魚の油で足が滑らないために履くのである。
旅姿だと、どうしても足下は「草鞋(わらじ)」を思い浮かべてしまうし、昔はそうだったのだろう。でも、四国の道は悪く、便所もきたないし、札所によれば手水もないところがあった。そんなところで、わらじのひもを結んだり解いたりすると手が汚くなってしまう。
そこで、草履(ぞうり)や、足半草履を勧めているのである。
即ち四国遍路においてこの草履が用いられたのは、海浜の道、あるいは山の難所の岩道などで滑らないという効能も見逃せない。例えば現在でも、岩屋寺の奥の院の二十一段の梯子のように、一歩誤れば命を失う危険な所もある。江戸時代をふりかえると阿波から土佐にぬける難所をはじめと岩屋寺奥の院よりして、もっと多くの難所、滑落所があったと思われる。『四国八十八ケ所道開』の一節には、「……阿波と土州の国境、八坂坂中難所にて、八浜浜中又難所、飛石はね石ごろごろの、石の数々ふみ分けて……」と表現されている。
ところが明治期に入ると四国路も大分開けてきたこともあり、足半草履よりも普通の草鞋が大半を占めた。また地下足袋も現れた。大正七年、高群逸枝は白地下足袋に草鞋をはいている。大正、昭和期では下駄も珍しくなくなった。それだけ道が開け、交通が便利になったのである。靴の普及もあった。
なお、昭和二十年以前のころ(戦前)では、足半草履はすっかり廃れ、普通の草鞋が遍路道の随所に、いも、蜜柑などといった食べ物と一緒に吊って売られていた。その光景は地元の古老らには懐かしい想い出となっている。いわゆる無人販売所である。現在でも遍路の道筋に、季節の果物および野菜が売られている。
今日の掲示板はこれ。「傲慢になったり卑屈になったり 一喜一憂している我が人生」というもの。いつもお世話になっている町内の善楽寺さんの掲示板にあったことばから。あの人の奥さんはきれいで優しそうだから幸せな家庭だろうなぁと、うらやんでみたり、あの人は大きな会社の社長さんだから優雅な生活をしているんだろうなぁと考えてみたりするけれど、他人より優れている人が幸せか・・・というとそうでもない。その人たちも自分と同じで、傲慢になったり卑屈になったり一喜一憂してるのである。世の中に幸せだけの人なんていないのだし、不幸だけの人もまたいないのだ。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。