さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は26.5度から33.8度、湿度は96%から68%、風は1mから2mの北東の風が少しばかり。明日の22日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて晴れるけれど、昼前からは湿った空気の影響で曇り、昼過ぎから夜のはじめ頃にかけて雨や雷雨となる所がある見込み。
98/46/78 36.3c-96% 60.1Kg 29.3c-78%-1011hPa 体調に全く問題はない。ただ、正座とか駆け足とか登山とかは無理。運動は全般的に無理だけれど、普通の日常生活には支障がない程度。健康体では決してない。
これが直近のデータだが、「要介護2」という認定をいただいている。つまり、「食事や排泄に介助が必要なことがあり、身の回りの世話全般に介助が必要。立ち上がりや歩行に支えが必要。など」と規定されている。「要支援」ではない。
Facebookの友人である大塚先生から、「>このまま「句集」にもなる・・・💛。」・・というコメントをいただいたので、早速、ブログの見出しを集めてみた。私のブログの表題が、そのまま俳句らしきものになっているからである。
それを、ワード文章に流し込むと、こういう俳句集になる。A4版の半分のA5判になる。つまり、これを二つ折りの山折りにして行く。
すると、こういう本になる。ステップラーで閉じると製本ができる。
それを和紙で作った表紙に挟み込んでのり付けすると本になる。
題簽(だいせん)というラベルを貼り付けると、俳句集ができあがる。「はいくる」というのは、「俳句する」からの造語である。「事故る」とかの真似である。「じぃじぃ」は「爺」の幼児語である。
手元にあった古い物と並べてみたが、そんなに進歩はしていない。
当然だが、前書きもあればあとがきもあるし、奥書だってちゃんと用意してある。
それができたら、朝食になった。いつもの6時前だった。
これが私の検診セット。血圧計、体温計、パルスオキシメーターの三点セット。これで毎日の体調を管理している。
閑話休題。いよいよ、論文の本文に取りかかった。前書きから序文に入り、自己紹介やら私の生活環境などを述べ、その初段で「病歴」を述べる。
こうしてみると、記録のある前期には肺炎とかカテーテル検査とかで、おなかが張るとか身体が重いとかの記述はない。普通に肺炎とか風邪とか不整脈とかという段階・・・。普通に飲み過ぎたとか食べ過ぎた・・・という段階である。
今日のお昼はまたまたおうどんである。よくも飽きない物だと思われるかも知れないが、そんなに食にこだわる方でもないので、食べられたらそれで良しとするタイプ。嫌いな物は嫌いだし、食べたくないものは食べないというか食べられない。
午後からも論文の続きを書いていた・・・。
今日の掲示板はこれ。「仏教は都合よく生きられたら幸せだという夢から覚める教えです。仏教は不安を取り除くのではなく不安に立つ教えです」というもの。どこの誰の言葉かはわからなかった。安田理深先生のことばかも知れない。
安田理深先生の自宅が火災にあった時のエピソードを以前読んだことがある。隣家から延焼して、学者の命ともいうべき重要な蔵書やノート類がすべて焼けてしまったという。普通の人間であれば計り知れないほど大きなショックを受けたことだろう。しかし、安田先生はこのように書いておられた。
「「焼かれた」のでもない。「焼いた」のでもない。ただ「焼けた」と。そうすると事実を事実のまま受けていけるのではないか。自も他も損なわんで済む。こんなことを今度の火事で学んだ」という。しかし、私たちは起きたことのショックが大きければ大きい時ほど、それによって自分や他人を呑み込むような思いにずっと引きずられてしまい、その苦しみから離れることが難しくなってしまうもの。仏教を学んだからと言って、都合よく生きられるわけでは決してない。好むと好まざるとにかかわらず、生きているとさまざまな災いが必ず降りかかって来るもの。むしろ、目の前で起きた辛い出来事を「師」とし、「先生」として、そこから学びや対応の仕方を考えさせてくれるのが仏教という教えであり、この世界に生きていると、葛藤や不安が完全におさまることは決してない。災いや不安・葛藤を前にした時、仏教にヒントを求めて、命ある限り謙虚に学び続けていく姿勢こそが大切なのではないだろうか。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。