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Channel: まほろば自然博物館
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処暑という暦をめくる風がある

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 さぬき市地方は、高気圧に覆われて概ね晴れていたが、上空の寒気や湿った空気の影響で、夕方から夜のはじめ頃は雨や雷雨の所がある見込み。気温は25.5度から32.7度、湿度は92%から74%、風は0mから2mの北の風がほんの少し。明日の24日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしい。

 

 93/48/79 36.3c-96% 60.8Kg 26.1c-79%-1010hPa 体調に変化はない。

 

 今日は集落の「おっぞさん=お地蔵さん」の日である。これが本当にお地蔵さんなのかは誰も知らないし、何のためにやっているのかも知っている人はいなくなった。「前からやっている」とか「親がそうしていた」とかだけで、お掃除をして、お参りをしておひらきになる。

 

 この集落では、山の神さんでも地神さんでも同じことだが、掃除をしてお参りをして、おしまいになる。新入りの私にはわからんことばっかりだが、訊く人もいなくなってしまった。

 

 この石段の先にあるほこらが「おっぞさん」である。掃除をしてお花をお供えして、それだけである。それでも、お賽銭が数百円も貯まっていた。最近はサルも持って行かなくなったらしい。

 

 で、お頭人さんがおロウソクに点火し、お線香をあげて、みんなで拝礼して行事は終わる。昔はお菓子やご馳走をおそなえしたのかも知れないが、近年にはそれもない。地蔵盆との関わりも誰も知らないと言う。

 

 さて、それはそれとして、先日にさぬき市から文書連絡があって、来月下旬に防災行政無線の電柱工事があるとのことだった。

 

 その計画に依れば、前年度の計画と変わらない。「そこでは困る」と、代替え地を示して移転するようにお願いしてあるにも関わらず、堂々と、前年度の予定地に建柱するとの案内である。もちろん、自治会員は憤慨し、そこはあかんと反対意見。で、そこから少し西(上図の左上)に場所を決めてきた。私たちの意見である。市がそこに決めるかどうかはわからない。

 

 土地の持ち主(地権者)の了承を得て赤杭を打った。ここだと民家に近くなく、集落内によく聞こえる場所になる。

 

 午前中は、こうした写真や画像処理やらお願いの文書なんぞを作っていた。この赤棒が予定地である。

 

 話は前後するが、掃除から戻ってくると、玄関先に見慣れないものが・・・。なんだろうとよくよく見れば「タマネギ」をかじって捨ててある。

 

 ガレージに戻ると、食べたタマネギの相棒が転がっている。サルがタマネギを食べるとは知らなかった。「サルにタマネギをやると、むいても剥いても中身がないのでサルが怒る」とかと子供の頃には言ったものだが、サルはタマネギを食べるのだ。

 

 奥方からの宿題で、野菜畑に水を流しておいた。コンセント一つで、となりの津田川の水をポンプアップして畑に流すことができる。

 

 これも奥方からの宿題で、昔の台所の食卓であったテーブルを持って帰ってきた。私たちが結婚した当時は、これで食事を食べた。これを洋裁の作業卓にしたいと奥方が言う。で、錆びたガスコンロを外してしまったら、今度は蓋ができなくなった。その蓋を支えるために材木を打ち付けて受け台にした。更に横材を接着剤で貼り付けてみた。

 

 こうして、作業用のテーブルができた。上には布を張るのか、ビニールクロスを張るのかは知らない。ここまでできたら、後は奥方にお任せだ。

 

 さて、お役所用の文書の作成である。画像処理できた写真をワード文書に貼り付けていく。ちょっとばかり偉そうにしてみた。

 

 で、あれやこれらの文書をまとめて、明日、郵送しておく。今日は郵便局はお休みなのだ。

 

 郵送する文書はできあがった。

 

 野菜畑の水も貯まったようなので、コンセントを抜いてきた。

 

 今日の掲示板はこれ。「仏教とは信じる信じないということではない。生かされて生きているいのちの事実にうなずけるかどうかだ。」というもの。いつもお世話になっている赤松先生のお寺にあった掲示板から。生まれたものは必ず年老い、病に侵され、死んでいく。これは誰も免れることのできない事実である。私たちは老病死をなるべく見ないようにしながら毎日を生きている。しかし、見ないようにしていても、老や病や死が消えるわけでは決してない。その意味で、好きとか嫌いだという人間の思いを超えた、いのちの自然の営みを抱えているという自分の人生を、どう生きるかが最も大切な問題に突き当たってしまう。無常なるいのちの事実を深く知るとは”今生きていることのかけがえのなさに目覚めよ”との呼びかけである。命のかけがえのなさに目覚めるとき、次々と問題が起こってくる人生を生き抜いていく勇気と自信が湧いてくるのではなかろうか。まさに「生かされて生きている」という、いのちの実相に驚かされているばかりである。

 

じゃぁ、また。明日、逢えたら、いいね。


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