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Channel: まほろば自然博物館
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足早に枯れ葉が駆けて行くばかり

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 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は10.5度から15度、湿度は78%から56%、風は2mから6mの西の風が少しばかり。明日の13日のさぬき市地方は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れる見込み。

 

 110/46/82 36.7c-97% 62.4Kg 14.4c-47%-1014hPa 体調に変化はない。昨年の今日の数字は、117/66/64 36.4c-96% 68.8Kg 12c-36%-1016hPa ということで、体重が増加している時期だった。今年は体重に気を遣っている。

 

 さて、いつものように、「大窪寺の山門にはなぜ大きな草履がおいてあるのか」ということで調べていたら、こんなお寺が出てきた。徳島県の「愛染院」という四国霊場三番札所”金泉寺(こんせんじ)”の奥の院らしい。そんなことはどうでもいいのだが、

 

 ここに、こういうお堂があるらしい。阿波坂西(ばんせい)城主「赤澤信濃守」の墓所だというではないか。

 

 これは私の所属寺院「海暁山海暁閣勝覚寺」のご先祖にあたる方である。「坂西(徳島県)城主、赤澤信濃守、中富川の合戦において、討ち死にした後、赤澤信濃守の一子、正本法師菩提を弔うため、大坂天満興正寺で得度し、丹生に勝覚寺を開基する(天正年間)」というのが、勝覚寺の縁起である。それでは、”現地に行こう、現物に触ろう”ということで出掛けてみた。

 

 で、お遍路用の地図を片手に出掛けて行ったのだが、まるで土地勘がわからない。高校生の頃、ここを歩いて愛染院のご朱印をいただいたことがあるのに、60年も経ってしまえば全く風景が違う。

 

 行ったり来たり戻ったりを繰り返しながら、どうにか愛染院を見つけることができた。伝承によれば平安時代前期の弘仁7年(816年)四国を巡錫中の弘法大師(空海)がこの地に霊気を感じた。そこでみずから不動明王を刻み、ここに本尊として安置したのが始まりと言われている。 明治・大正時代までは「阿弥陀寺(あみだんじ)」と呼ばれていたが、大正10年に四国21番札所太龍寺の境内にあった「愛染院」と合併し、現在の寺名となった。

 

 これが山門である仁王門である。なんだかんだとあるのだが省略。

 

 これが本堂で本尊は不動明王。軽く一礼して参拝。

 

 これが、その、赤澤信濃守の廟所とされるところ。ここにも大ワラジが奉納されている。

 

 勝覚寺ではよくよく聞かされていた名前であるが、こんなところでお目に掛かるとは・・・。赤澤信濃守は天正10年(1582年)長宗我部元親の阿波進攻に際し、中富川の戦いにおいて討ち死にしたと伝えられている。信濃守が履いていた草鞋の紐が切れたために戦に負けてしまったという言い伝えのためか、治癒した信者は当院に草鞋を奉納する習わしがある。またこの赤澤信濃守廟と仁王門の前にはそれぞれ大わらじが奉納されている。

 

 それだし、お堂の中には、足腰が治ったと言う方が「願ほどき」に納めたというたくさんの草履が壁一面を覆い隠している。それほどの信者さんがいるということなのか。

 

 それにしても、このおびただしい草履の束は「すごい」の一語に尽きる。圧倒されるばかりである。

 

 ついでに大師堂にもご挨拶をしておく。

 

 で、四国唯一という超レアな御朱印をいただいてみた。この中央は「刷毛」で書いたという不動明王のご真言らしい。読めないけれど。左右の「奉納」と「愛染院」は普通の筆で書いていただいたもの。

 

 その少し東に「振袖地蔵」というものがあった。犬伏の撫養街道にそって南向きに地蔵堂が建っている。そこに「振袖地蔵」「カヨ地蔵」と呼ばれる美しい丸顔の地蔵がおさめられている。

 

 その名のおこりは、天正10年(1583)四国制覇をめざした土佐の長曽我部元親が2万2千の兵を率いて、中富川をはさんで勝瑞城の十川氏と対戦、板西城主の赤沢信濃守も一族、郎党を従えて元親の大軍と戦ったが、戦い利あらず討死、留守を守っていた奥方は逃げることの不能を悟り、姫をにがして自分は「松の木」という所で自害、姫は犬伏の諏訪神社近くで捕えられ殺害された。土地の人は姫をかわいそうに思い、地蔵を建ててその霊を弔った。姫の名を「カヨ」といったので「カヨ地蔵」、その時振袖を着ていたので「振袖地蔵」ともいう。

 

 地蔵の建立は、享保7年(1723)とあるからずっと後世に建てられたものである。

 

 ということで、今日は、こういうルートで走ってきた。約2時間、10Kmほどの旅だったらしい。

 

 帰る道筋にあった今日の掲示板。「思ふこと 今年も暮れて しまひけり」という正岡子規の俳句で、いつもの赤松先生のお寺の掲示板から。明治28年の大晦日、漱石と虚子が子規の家にやってきてにぎやかな大晦日になった。その時に、正岡子規が詠んだ句の一つがこれ。「いろんなことがあったけれど、今年もついに暮れてしまうんだなぁ」という気分だったのだろうか。子規の病はこの頃から深刻さを増してゆくのである。振り返ってみれば、私もこの一年にはさまざまなことがあった。死の淵をさまよったり、最期通告を受けたり、治療不能と言われたり・・。その後、なんだかんだの手術を受けて、かろうじて生き延びている。思うことはたくさんたくさんあるけれど、今年も間もなく暮れてしまうんだなぁと言う気持ちにはなる。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


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