さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は3度から10.1度、湿度は76%から62%、風は1mから3mの西南西の風が少しばかり。明日の5日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇る見込み。
121/63/79 36.2c-96% 63.4Kg 18.1c-48%-1030hPa 体調に変化はないが、肩こりからか右耳が詰まっているようで気分が悪い。
さて、三が日も終わったので玄関飾りや松飾りなどを片付けてしまった。
植木に差してあった飾り物もみんな撤去した。
それらはまとめて紙袋に入れて物置に片付けた。
玄関飾りのコマやカルタやメンコなども片付けた。
玄関飾りも片付けて、牛の置物だけにしておいた。いつまでも正月気分ではいたくないのだ。
で、いつもの大窪寺にやってきた。ここに来ても私はお参りなどはしない。軽く一礼してご挨拶のみ。阿弥陀一仏信仰だからほかの仏さんに御用はないという意味。
で、ずっと気になっていた、この写真。大窪寺の写真らしいが、こんな風景が見当たらないのだ。で、このお坊さんが誰で、いつ頃の写真なのかも分からない。ただ、「大窪寺」らしいというだけだ。
境内をウロウロと歩いていて、「あ、これかぁ・・・」と思った。灯籠の位置が狭くなっているから感覚がわからなかったのかも。この「忠魂塔」の裏手に回ってみた。
すると、「維時(これとき)昭和十三年五月建之(けんのう)」と刻んである。その下に、「大窪寺第六十三世 住職恵旭 後住密純」とあった。このことから、上の古い写真は昭和十三年五月のもので、右が住職の恵旭師で、左が後住の密純師だとわかった。
大窪寺の文学碑はあらかた調べた積もりだったが、こんなところにも歌が刻まれていた。「空海の こころのうちに咲く花は みだよりほかに知る人はなし」と刻まれている。ま、空海さんが阿弥陀信仰だったという話は聞いているが、こんなにはっきりと刻まれているとは・・・と驚いた。ま、これは空海さんが詠んだ歌でないことは明白だが、東寺の御詠歌の一つにもなっている。
こちらには、「ありがたや 高野の山の岩かげに 大師は今におはしまします」という歌で、これは天台宗総本山、比叡山延暦寺座主であられた慈鎮和尚の作である。弘法大師の教えが、真言宗のみならず、宗派を超えたものであった事がうかがえる歌であるという。
帰ってからは、今度の日曜日に集落内の「山の神宮」のしめ縄造りを頼まれているので、その準備。まだ、稲穂が付いたまんまだから、これを一本ずつ指で扱(しご)いて稲粒を払い落としていく。これがまた、七面倒くさい仕事なのだ。そうこうしていたら日が暮れる。
今日の掲示板はこれ。「死ぬるものと 誰も思はず 花の春」という正岡子規の俳句である。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板から。この句は、明治25年の「寒山落木」という俳句集に収められたもの。まだ、25歳で、帝国大学国文科を退学した頃のものらしい。まだ病気は発症しておらず、それこそ新聞社に入社して意気盛んな頃だったから、「死ぬるもの」とは正岡子規も思ってみない頃だったのだろう。でも、新年を迎えるたびに、老いはひたひたと忍び寄ってきている。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。