さぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇っていた。気温は6.5度から11.7度、湿度は78%から60%、風は3mから1mの東北東の風が少しばかり。明日の8日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇るらしいが、次第に高気圧に覆われてくるため、昼前から晴れてくる見込み。
113/63/79 36.5c-98% 63.4Kg 20.3c-45%-1028hPa 体調に変化はない。肩こりは気にならなくなった。
今日は久しぶりに、何年かぶりに香川県立図書館にやってきた。正面に見えるのは香川県立文書館である。公文書なんぞが保管されている建物である。
その手前側にあるのが香川県立図書館である。ここも静かで人影は数えるほど。この左側は新聞閲覧室や雑誌、文庫本などが置いてある区域である。
で、今日、借りた本はこういう本であるとか、
とか・・・、
こういう本である。こういう本を書く人も書く人だし、こういう本を作る人も作る人だし、こういう本を借りる人も借りる人だと思うばかり。
それはそれとして、今度は大窪寺周辺に残る伝説や伝承、昔話などを集めていた。それを集めてスキャナーで読み込んで電子化する。
それを、「One Drive」というクラウドに投げ込んでおけば、いつ、いかようにも調理できる。
でも、よくよく調べてみたら、同じ事を何回もやっているのである。同じ本を何回も借りて忘れてしまってまた借りるのである。だから、似たような話が幾つもクラウドの中に溜っているのである。そんな無駄足を踏みながら、人は歩き続けていくのである。
そうそう、先の年表で分かったこと。お寺の縁起に書かれているような年代よりも遅くに大窪寺は建立されているし、長宗我部元親軍が讃岐に侵攻する前に、大窪寺は兵火に遭って焼失しているのもわかった。やっぱりなぁと思うのだが、これは見て見ない振りをする。お寺の歴史を代えてはいけないのだ。
今日の掲示板はこれ。「人生に「余生」などない 「与生」である」というもの。いつもの赤松先生のお寺の掲示板から。「定年まで勤め上げたので、余生はノンビリ過ごしたいものです」などという言葉を聞くことがある。 ところで、余生ってなんだろうか。人生の余った生ということなんだろうか。道元禅師は、「正法眼蔵」生死(しょうじ)の巻の中で、「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」と書かれている。一生をかけて求めていくテーマ「生」に余るところなどないなずなのだ。徳川光圀も「人生に余生などないぞ!」、こう言い放った一人である。一方、「与生」とは、与えられた生命(いのち)という意味である。私たちは、自分ひとりの力で生きているのではなくて、両親から生を享(う)けて、多くの人たちの愛情と善意によって生かされている存在なのである。水も空気も太陽も、自然の恵みにより与えられている。「与生を生きる」とは、そのことに感謝して生きるということ。感謝をして生きる上で最も大切なことは、今まで与えられてきたのだから、これからは「与えて生きていこう」という考え方でもある。「与生」とは、与えられた生命であるということに感謝して生きるだけではなく、与えることに喜びを見出していこうとする考え方でもある。
じゃぁ、また、明日、遭えたら、いいね。