さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていたが、午後からは曇ってきた。気温は11.5度から23.8度、湿度は92%から38%、風は1mから2mの東南東の風が少しばかり。明日の11日のさぬき市地方は、湿った空気の影響で概ね曇る見込み。
118/72/82 36.1c-98% 63.6Kg 17.7c-47%-1012hPa 体調に変化はないし、足のしびれもない。だけれど健康体ではない。単に水分の排出がいいだけのことだ。
これはスマートウォッチ、電子腕時計の数値をスマホ、iPhoneで読み取った数値であるから正確な数値ではないが、概ねの目安である。上段の数値が血圧計や体温計などで測った数値である。
昨日は「砥石谷」や「でべそ石」の概ねの姿が見えてきたので、今日は、その次の宿題に取りかかった。今日は「生駒神社」の調査である。
その昔、奥山村の菅谷(すげたに)へ落ちのびて来た一人の武士があった。この武士は、名を生駒甚介壱岐守といって、かつては引田に城を構え大坂城に勤めていたのだが、人に恨みをかって、この奥山に従者一人つけずに逃げ落ちて隠れ住んでいた。
ある初夏の日、馬に乗った追手に見つけ出されてしまう。追手はいったんは甚介を見失ったのだが、捜しているうちに甚介の隠れた場所を目で追う農夫のそぶりから再び発見され、四つ辻のところまで逃げて来たところ、とどめをさされてしまったという。この四つ辻のかたわらにある甚介森は、甚介の亡きがらを埋めた所といわれ、この森の木に触れるものはたたりがあるといわれてきた。また、かたわらを流れる小川の水が赤いのは、このとどめに使った刀を洗って以来といわれていて、この川の水を飲むと腹痛を起こすということであった。
このお社が本殿になる。中には木札や丸い石が納められている。
これがお墓代わりの石碑だろうか。「為生駒甚助■」とあるが、甚助の後が読めない。見たことのある字なのだろうが、はてさて・・・である。向かって左には「文化六己巳(つちのとみ)八月二十八日建之」とあり、1809年の建立で、今から212年前のお話である。
ついでに槇川(まきがわ)の庚申さんにも寄ってみた。現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。
地元で"庚申こうしんさん"の名で親しまれている庚申塔は、国道377号線多和小学校槙川分校の前にある旧遍路道の路傍に建てられている。周辺の環境は手入れが行き届いていて、近所の人の"庚申さん"に対する熱意が感じられる。この庚申塔は大きさ、彫刻のすばらしさなど全国的にも珍しい存在である。正面の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)で、背面は道祖神に似て男性器を表現している。青面金剛は邪鬼を踏みつけており、その下には三匹の猿と左右に一対の鶏が彫られており、悪病悪霊すべての災いを防いでくれることを表現している。庚申講(庚申待、宵庚申)では、60日目に巡ってくる「庚申の日」に講元である家に集まり、飲み食いしながら翌朝の一番鶏が鳴くまで語り明かすという行事であるが、今では親睦の会などに変わっている。
その後、山寺さんにも寄ってみたが、相変わらず人影はまばら。時に散歩がてら、おうどんを食べている人がいるくらい。それでも門前の三軒のうどん屋さんはお店を開けてお客さんを待っている。
境内にはお掃除をするおじさんが一人いたばかり。たまに歩き遍路の若者が姿を見せるくらいだとか。
今日はおそばにしてみた。どこのおそばかはわからない。
帰りに、おなじみのスーパーに立ち寄ったら、母の日が終わればすぐさまに「父の日」セールになっている。お父さんに栄養剤では哀しいかな・・。
今日の掲示板はこれ。「にごり水でも静かにすれば いつの間にやら澄んでくる」というもの。これまた、各地のお寺の掲示板にあがっているけれど、どこの誰の言葉かはわからない。どんな泥水でもしずかに放っておけば、やがてにはいつの間にか澄んでくる。それと同じように、私たちの心もあれやこれやと煩わされて濁ってしまうのだけれど、こころを沈めておとなしくしていれば、いつの間にやら澄んでくる。慌てず待つことだ。
じゃぁ、また、明日、逢えるといいね。