27日のさぬき市地方は、高気圧に覆われて概ね晴れていた。香川県では、27日は熱中症の危険性が極めて高い気象状況になることが予測されるので、外出はなるべく避け、室内をエアコン等で涼しい環境にして過ごしてくださいと呼びかけている。気温は25度から33.6度、湿度は92%から72%、風は1mから3mの西南西の風が少しばかり。明日の28日のさぬき市地方は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込み。
99/54/79 35.8c-98%-61.8Kg 24.8c-85%-1015hPa 体調に変化はない。だからと言って歩けるかというとさほどでもない。意識ははっきりとしているが、身体は自由には動かない。
観光ガイド大窪寺班の例会を来たる9月に予定しているが、感染症のほうは収まる気配がない。これでは9月分も延期になる可能性が出てきた。ま、あるなしに関わらず、準備の方は進めておかなくてはならない。
いささか古い話だが、「地蔵和讃」というものがある。「♪ひとつ積んでは父のため~、ふたつ積んでは母様と~、さま幼(いとけ)なる手を合わせ~、礼拝回向ぞしおらしや、みっつ積んでは故里の、兄弟が身と回向する~・・・」という「地蔵和讃」というものがある。
こういう子どもたちに「地獄・極楽」の話をしてもわからない。ここで、このおばさまは、「親より先に死んでは行けない」「親に哀しい思いをさせてはいけない」というお話をして、「自殺をしない」「ひとをいじめない」という約束をするのである。
そのおばさまが、体調を崩されて、このガイド役をおりてしまった。そこで、このおばさまの代わりを探して養成しなくてはならなくなった。
と、まぁ、こういうお話である。その紙芝居的なファイルを、そのおばさまから返してもらう訳にもいかず・・・、
再度、こういうファイルを作り直していたのである。いろいろとお仕事はあるもので。
私たちは観光ガイドである。だから、宗教的なお話はできない。だから、「地蔵和讃」がどういうものかなどということは知らなくてもいいし、話すこともできないのである。でも、「桃太郎」や「浦島太郎」の話ならばできるように、昔話風にお話しをして自殺防止やいじめ防止のお話をするのである。
で、今日は奥方の診察日だった。診察日たって、包帯を外して点検をして、薬を塗って包帯を巻き替えておしまいである。お年よりの打撲だから「日にち薬」というもので、三週間から四週間の加療ということになっている。まだ二週間ちょっとだから、もう少しはおうちでごろごろするつもりらしい。「労災」ということになっているので、会社も被害者ものんびりとしたものである。
で、今日のお昼はかけそばになった。もう、すっかりと炊事洗濯掃除と、自分でなんとかこなしている。自分ではどうにもならないときには私を呼ぶが、私に言われてもどうしようもないこともある。
「洗い物をやりましょうか」と言うても「いいわよ」と言うからかわいげがない。ま、74歳にもなるのだからかわいげがあるほうがおかしいのかも。
そうそう、昨日あたりから、このブログの最後にあった「いいね」欄がなくなった。それがあろうとなかろうとどうでもいいのだが、あるものがなくなると、ついつい、忘れをしたようで後ろ髪を引かれる思い。ま、坊さんに後ろ髪なんぞある筈がないのだけれど。
今日の掲示板はこれ。「ありがとうと心から喜べぬ ごめんなさいと心から恥じることもできぬ 今日も如来のご苦労が身に染みる」というもの。これまた、どこのどなたの言葉かは分からぬのだが、親鸞聖人は自身の在り方を直視されて、
愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証に近づくことを快しまず『教行信証』親鸞聖人(真宗聖典251頁)
と、ごまかすことなく正直に述べられている。また『歎異抄』では、
念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり『歎異抄』(真宗聖典629頁) と、ここでは親鸞聖人ご自身も唯円と同じく「念仏申しても歓喜のこころが湧いてこないし、浄土へ往きたいというこころもない」とまで言われるのである。勿論これらは開き直っているわけでも強がっているわけでもないのだろう。念仏申しながらもいつの間にか善人になったように思い、本当の自分から目を逸らし、ごまかしながら生きているのが私たちである。ある意味、私たちは自分から目を逸らしている方が楽なのかもしれない。醜い自分の姿を見たくはないではないか。なんと強情な私たちであることか。なんと傲慢な私たちであることか。それでも親である如来は私たちを「いとおしい」「いとおしい」と見守っているのである。そんな親心を知っていながら、それでもまだすなおになれぬ私たちであることか。まるで反抗期の青年時代みたいではないか。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。