5日のさぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇っていた。気温は22度から28.5度、湿度は78%から68%、風は1mの北西の風が少しばかり。明日の6日のさぬき市地方は、引き続き気圧の谷や湿った空気の影響で概ね曇る見込み。
105/58/78 36.0c-97%-62.8kg 25.2c-79%-1015hPa 体調に変化はない。
今年は梅雨が長くて夏がない年になったような気がする。今年の梅雨入りは5月15日で、梅雨明けは7月19日。しばらく梅雨状態が続いて、ようやく真夏らしくなったなぁと思ったら、「ススキ梅雨」だとかでずっと梅雨状態。降ったりやんだり曇ったりを繰り返している。気がつけば、あたりはすっかりと虫の声でにぎやかになってきた。
さて、昨日から今日に掛けて、「金婚式」のお祝いとして小豆島で貸し切り一泊という旅行を娘がプレゼントしてくれるはずだったのが、このご時世で「ビンボウ」だか「マンボウ」だかで中止になって巣ごもり状態のままの日曜日。
私たちは昭和46年(1971)11月14日に結婚式を挙げた。だから、今年の11月で五十周年、金婚式ということになるらしい。だが、この騒動が一段落するまでは「お祝い」は延期と言うことになってしまった。ま、なんだかんだとあったけれど、お互い、よく我慢をしてきたものだと思う。11月までは、まだ間があるので、それまでのお楽しみと言うことになった。
で、「自分史」などとたいそうなものではないが、「昭和は輝いていた」という歌謡番組みたいなタイトルで子どもの頃の思い出をまとめている。
屋根裏部屋で見つけた戦前の教科書である。このカタカナばかりの教科書が、ひらがな文化で育った私には別の世界の教科書のように感じたものだった。
そうそう、その頃には農耕用の牛を飼っていて、そのエサになる「カイバ(飼葉)切り」という作業を子供らも手伝わされた。子どもたちは、この「押し切り」の先端を握って下に押して、稲わらや草を切り刻んで牛の餌にしたものだった。稲わらや草を、この刃に挟むのは危険なので母や祖母が担当していた。中学生くらいになると、一人でこれをやらされたものだった。
子どもの頃には絵本というものは売ってもいなかったし、買うこともなかったので、祖母がラジオで聞き覚えた「石童丸」「や「苅萱道心」の話を寝物語に聞かされたが、それがどういう話なのかは祖母もよく知らなかった。
本らしい本を読んだのは、小学校にあがるお祝いにプレゼントされた古い月刊誌の「一年生」という本だった。もちろん付録などはついていなかったが、本物の子どもの本を見たのはこれが最初だった。そういうこともあって、本は自分で作るものだと信じ込んでいたものだった。
天候は明るくなったり、暗くなったりを繰り返している。
今日のお昼は、奥方自慢のお寿司である。我が家はお祝い事でなくとも、メニューに困ればお寿司になる。少し前には「おいなりさん」だった。
それにレトルトの「和風きのこパスタ」というものらしい。仕事らしい仕事もせずに、運動もせずに、それでいて食事は完食するものだから、体重が微妙に増加傾向にあるような気がする。
で、雨も降ったりするものだから、本物の「ススキ梅雨」であるらしい。
今日の掲示板はこれ。「苦をまぬがれるには その苦を生かしていく道を学ぶことです」という、蓬茨祖運(ほうしそうん)先生の言葉から。蓬茨祖運先生は、浄土真宗の僧侶で仏教学者。 石川県出身で大谷大学卒。真宗大谷派参務。1970年九州大谷短期大学教授、二代目学長。賢隆寺住職。宇宙物理学者・蓬茨霊運は長男である。人生には4つの約束事があるという。「繰り返すことができない」「誰にも代わってもらえない」「かならず終わりが来る」、そして「その終わりがいつくるか わからない」。仏教の基本的な教えである四法印、すなわち諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静はこのことを私たちに教えようとしている。この生老病死の現実を前に、私たちはまさに無力と云うほかない事柄にしばしば直面し、苦悩する。蓬茨祖運先生は「苦しみをまぬがれるには、その苦しみを生かしていく道を学ぶこと」と云われた。心の闇が照らされて、闇を闇と知らされる。苦は消せるものではなく、照らされ開かれるものだと教えてくれたのである。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。