さぬき市地方は朝方は薄曇りだったが、高気圧に覆われて概ね晴れていた。気温は13度から25度、湿度は94%から42%。風は1mから3mの南の風が少し。明日の19日は、引き続き高気圧に覆われて、概ね晴れる見込みらしい。
本来ならば、今日は所属寺院の「春期永代経法要」の日だったのだが、明日の19日に順延になって、ぽっかりと予定の空いた一日。さて、今日は何をして過ごすべぇかと思ったところに・・・。「ちょっと、お願いがあるの!」と地上から携帯電話が・・・。
なんだろうと、外に出て見ると、みずやり用ひしゃくの柄が折れた・・・とのこと。「すぐに直して欲しいの・・・」と仰る。それも2本も・・・。
「はいはい」と、直したら、今度は、水やり用ホースが短いので、長いものと交換して欲しい・・・という注文が・・・。体のいい「便利屋」さんではないのだろうか。
さて、我が家の横のこの水路。今日は当番さんがやってきて水路掃除の日らしい。
と、このようになった。
こちら側の水路も・・・。
このようにきれいにしてくれた。実はこの水路は・・。1828(文政12)年に有馬胤滋によって津田川・砕石(われいし)から弥勒池まで全長2.6km の大掛井(導水路)が完成しても、漏水が多く十分な水が弥勒池に届かなかった。
こうしたありさまを憂慮した富田中村の庄屋であった軒原庄蔵は,弥勒池と津田川を隔てる尾根の地下に石穴(隧道,トンネル)を通して導水すれば水不足が解消できるのではないかと考えた。尾根部の地下は固い岩盤なので大掛井のように漏水する心配が殆どなくなるほか,水路の距離が短くなるので,水路の勾配を大きくとることができて水が通りやすくなるという利点もあったようだ。
http://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou84.pdf
これが「みろく石穴」と呼ばれるもので、中は人がしゃがんでようやくに通れるほどの狭くて低いもの。
http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/ikemiroku.html
江戸時代末期ごろのことだから、こうした工事風景だったのだろう。
こうして、昔の富田中村・富田西村・田面(たづら)村あたりの水田が潤ったのだという。そういう歴史的な水路だから、今も受益者たちの手で、この水路が守り継がれているというわけ。だから、私も年に数回は、我が家の周辺の水路掃除をお手伝いさせていただいている。
午後からも「お遍路学」というか、「遍路の闇と陰」の部分についての資料集めをやっていた。
今日の掲示板はこれ。「いまから ここから。あしたはあてにならぬから」という「相田みつを」さんの言葉から。最近、似たような言葉を選んでいるような気がしないでもないが、深い意味などあるはずもない。年がいくと物忘れが多い、気のついたときすぐに処理しておかないと忘れてしまう。思い出そうと思っても、どこの引き出しに入れたのかがわからないから出てこない。思い出したときには手遅れで、それが他人に及ぼすときはなおさら困る。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。