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梅雨明けて 雲まで高く 見えるもの

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 さぬき市地方は高気圧に覆われて概ね晴れていたが、大気の状態が不安定となるため雨や雷雨の所がある見込み。気温は22度から29度、湿度は96%から60%。風は2mから3mの南南西の風が少し。明日の21日は、引き続き高気圧に覆われて概ね晴れるが、午後は大気の状態が不安定となるため雨の降る所があるらしい。それはそうと、本日11時に、「中国・四国地方は梅雨明けした模様」という発表があった。昨年よりも18日遅いというのだが、今日も明日もすっきりしない天気なんだけれど。

 

 ということで、「暑中お見舞い申し上げます。」これからが夏本番。暑さに負けずにご自愛くださいますように。

 

 さて、私はさぬき市観光協会のボランティア・ガイド「おへんろつかさの会」に入って、お遍路文化の研究や継承活動をやっているのだけれど、「お遍路は誰が始めたのか」ということが基本的な問題になる。もちろん、弘法大師空海が始めた・・・というのは有り得ない。そこで浮上するのが、「四国辺路の父」とも言われる「真念」という僧侶。

 

 この石碑に刻まれている「真念」という人だ。四国八十八ヶ所を特定し、現在の「発願の寺」1番札所から結願所の88番札所までの巡礼の札所番号を定めたのは「大坂」の宥辨真念だといわれている。江戸時代にあっては、大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするのが普通であったことから、撫養(むや=徳島県北東部、鳴門市の中心地区。旧板野郡撫養町。撫養川河口にあり、古くから畿内〈きない=奈良県の全域と、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部〉と阿波〈あわ=徳島県)を結ぶ交通の要地であった)の港に最も近い霊山寺を第1番札所と定めたという。

 

 明治時代まで版を重ねる一大ベストセラーとなった本格的なガイドブック「四國邊路道指南(へんろみちしるべ)」の後の書きに発刊の願主として「仝所(どうしょ)寺嶋 宥辡真念房」と、また「四國偏礼功徳記」のそれに『大坂寺嶋頭陁(ずだ)真念 宥辡』と記されているところから、真念は大坂寺嶋(現・大阪市中央区空堀商店街付近)を本拠として活躍した頭陀聖(ずだひじり=日本の中世において、真言宗に属し、寺も師ももたず、高野山から諸地方に出向き、勧進と 呼ばれる募金のために勧化、唱導、納骨などを行った修行僧)であったと思われる。

 

 これが、その、真念のお墓とされるもの。現在は八栗山麓にある「州崎寺」の境内に、そのお墓があるというので行ってみた。現在の四国辺路を作り上げたという人のお墓である。この写真は元の位置、牟礼の塩屋の南三昧「さんまい:墓地」にあったもの。

 

 これが、その真念房のお墓である。近年、ここの場所に移転されている。その説明版によると。

 

 こういうことらしい。つまり、今年が「四国霊場開創1200年」と言われているのと少し趣が違うことになる。四国遍路のために多大な功績を残した高知出身の大坂(阪)で活動した真念が、「四国中興の祖」とか「四国遍路の父」といわれる由縁は、自ら20回以上も四国を訪れて弘法大師が修行したと伝わる霊場を巡って、「四國邊路道指南」や「四國偏礼功徳記(しこくへんろくどくき)」等の道中記や霊場記(ガイドブック)を刊行したうえに、遍路宿(屋)の建立や遍路道に標石を設置したためである。

 

 なお、お墓にはこのような字句が刻まれている。

 

 さらに真念は、各札所で取材し、四国遍路を同行した小沙弥(こしゃみ)洪卓(こうたく)が書いた札所の絵図と共に、高野山・宝光院の学僧であった寂本(じゃくほん)阿闍梨(あじゃり、あざり)に霊場記の編集を依頼して、1689(元禄2)年に「四國徧礼霊場記」(しこくへんろれいじょうき)を刊行している(これで江戸時代の遍路案内書は、ほぼ完成したといわれる)。

 

 つまり、それまでは修行僧や修験者などが四国の山中を歩いて修行していたものを、真念たちがガイドブックを作り、案内用の石碑や遍路宿を作り、お接待などの仕組みを作ったといういことらしい。こうして、一般民衆も四国遍路の旅に出掛けるようになったということだ。

 

 州崎寺は、源平の戦いの時、負傷した兵士たちを、「戸板:雨戸を外して」、その上に人を乗せて担架代わりにして収容したところだと言われている。

 

 一方、こちらは、土佐の長曽我部元親軍が讃岐へ侵攻した時、宿舎になったとされる「六萬寺」である。ここものちに火災にあって規模は小さくなったということである。

 

 

 今から約1280年前の天平2年(730年)聖武天皇が讃岐の国主高晴公に禄を増し、新たに領地六万戸を御下賜になった。高晴公は大変喜び、国家の豊穣を祈り大恩に報いるため牟礼の郷に寺院を建立し、これをお聴きになられた帝より『国豊寺』という寺号の勅額と新羅王から献上の阿弥陀仏を本尊にせよと賜ったのが寺の始まりであると伝えられている。その後40年ほど経って宝亀年中(770〜780年頃)に国内に流行した疫病を鎮めるため当寺にて一大祈祷会を修したところただちに治まりまった。これを喜んだ高晴公は六万戸の領民に一戸一躯の銅の仏像を奉納せしめたため六萬寺と呼ばれるようになった。その霊験あって以来、多くの信心を集め七堂伽藍を備え、今の琴電八栗駅から大町駅にもおよぶ壮麗な寺院となったという。

 

 今日の掲示板はこれ。「欠点は直さなくて良い。見方を変えれば個性になる。持ち味になる。味わいになるから。」と云うもの。私たちは自分の「欠点」を嫌い、そのままでは人に嫌われてしまう、と思って、何とかそれを直そうとしたり、隠そうとしたりしてしまうもの。しかし、そういう態度は私たちを完璧主義に仕立て、むしろ、人との間に壁を作ったり、遠ざけたりしてしまうようになってしまう。実は「欠点」そのものが問題ではなく、「欠点をどう扱っているのか?」がとっても大切なことで、つまり、隠すのではなく、オープンに、直すのではなく、受け入れることが大切なことなのである。オープンになれなるほど、その欠点は嫌われることなく、あなたのひとつの個性として受け入れられ、愛されるようになっていくものである。

 

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

 


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