さぬき市地方は前線や湿った空気の影響で雲が広がり、昼過ぎにかけて雨の降る所があった。気温は温かくて21度から24度、湿度は82%から70%、風は1mから2mの南の風が少しばかり。明日の4日は、高気圧に覆われて概ね晴れる見込みらしいが、肝心の5日の日曜日は雨らしい。日曜のお昼は講演会のための駐車場係を仰せつかっているのに。
講演会は雨でも開催されるけれど、駐車場係は雨具を着ての案内・誘導をやらないといけないのか・・・。そうなると大変だな。
それはさておき、今日も曇ったまんま・・。お昼前からは雨になった。奥方は野菜ものには恵みの雨だわ・・・と大喜びをしていたが、そんなに多くもは降らなかった。おかげで今日は引き籠もりの日になった。
ということで、今日もパソコン三昧。このあたりでも、「へんろ」と「へんど」は混同されて使われていたりするし、自然に使っている人もいる。そうかと思えば、「へんど」という言葉にはいやな顔をする人がいるし、顔をそむける人もいる。小声で「そういう言葉は使ってはいけない」と言うひともいる。人それぞれだが、そのあたりを調べてまとめていたら、頭の中がウニウニになった。
秋祭りのシーズンだが、獅子ややっこの「祝儀」を集めて回ることを「へんどに行く」というが、絶対に「へんろに行く」とは言わない。ま、そういう意味からして「良いことば」ではないし、「そんなに言うことをきかない子はへんどにやるんぞ」と言われて真っ青になってものかげに隠れた子供は多かった。遍路に関する民俗学だし、社会学かも知れない。四国全域で聞かれた言葉だと思う。
サルが食べ散らかしたクリの実である。「行乞(ぎょうこつ)」という言葉は良いが「乞食」という言葉は禁止用語らしい。だんだんとことばも使うのが難しくなってくる。やがて「へんど」も使用禁止になるのかも知れない。「辺土」とか「辺奴」とか「遍奴」とか書いてあるが、正確なことはわからないが、「辺路」の訛ったものだと思われる。要は「職業遍路」であり「病気遍路」であり、「行乞遍路」であった。
「病気遍路」という人たちは見なくなったが、「職業遍路」は今もいて、大型スーパーの前や札所近くに立っている。お参りもせずにただ立っている。とても「托鉢」をしているようにも思えないし、お経も唱えない。そんな研究を整理していて日が暮れた。
この表紙は暫定版。とりあえずの試作品である。昔の若き空海さん(教海とか無空とか呼ばれた時代)も山で修行した時は「行乞」とか「修行」ということで托鉢もしながら旅をしたんだろうなぁと思う。近年の山頭火もそうした「修行」や「托鉢」をしながらの旅だったんだなぁと思った。やはり、原型はそういう「寄進」を受けたり、喜捨を受けての旅のようだった。お坊さんだって、食べない訳にはいかないのだから。
我が家の金木犀もほとんどが散ってしまった。あっと言う間の華の命。でも、ご用が済んだから散ったのだろう。でも、根っこが染まるほどには黄色くなっていない。
秋はぎもそろそろと花が散り始めた。植物たちもそろそろと冬の準備を始めている様子。我が家の秋の虫たちはまだまだ元気。
秋と言えば、このすすき。ススキは「芒」とか「薄」とか書くらしいが、イネ科のススキ属の植物で「尾花」ともいい、また茅(かや)とか「萱」とも書くらしい。うちのおばあちゃんはこれを刈って干して、炭を入れる「俵:たわら」を作っていたのを思い出す。
そういう炭焼き作業も、炭俵編みも昭和という時代とともに消えて行ってしまった。
でも、ときどき、バーベキューとかをする時になって、そういう時代のことをふっと、思い出すことがあったりする。
今日の掲示板はこれ。「太陽は夜が明けるのを待って昇るのではない 太陽が昇るから夜が明けるのだ」というもの。
太陽は夜が明けるのを待って昇るのではない。
太陽が昇るから夜が明けるのだ。
われわれはとかく、環境や他の条件の責任にしやすい。
水は低いところへ集まってくる。
尊いもの 美しいもの 善なるものも みんな
謙虚な人のところへ集まってきて
その人のものとなる。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。