さぬき市地方は寒冷前線や南からの湿った空気の影響で雲が広がり、雨が小雨・弱雨状態で降っている所があった。一時期には雷雨になったりもしたようで、天候の安定しない毎日。気温は24度から28度、湿度は96%から78%。風は1mから2mの東北東の風が少し。明日の6日も、気圧の谷や南からの湿った空気の影響で雲が広がり、午後を中心に雨が降りやすい見込みらしい。
朝から小雨が降っているものだから、今日はおとなしく我が家での引き籠もり状態。連日、西に東にと遊ばせてはもらえそうにない。
坂出市が、「六人の偉人を巡る」という冊子を作っているというので、資料の中から探し出してきた。崇徳上皇・西行法師・久米通賢・菅原道真・柿ノ本人麿・理源大師という六人の偉人の足跡が坂出市には残っているのだという。そこを巡ってみないか・・という冊子である。
で、こういう本を県立図書館で借りてきたのだけれど、案外と「さぬき市」に関する偉人という人は見当たらない。とりあえず、「平賀源内」は真っ先に浮かぶのだが、その後が続かない。
どのような本を開いても、「平賀源内」くらいしか出てこない。謡曲海女伝説の「藤原不比等」が辛うじて出てくる程度か。さらに調べると、「小西和(かなう)」とか「軒原庄蔵」とかも出て来るが、全くマイナーな人たちばかり。
相変わらず、雨は降ったり止んだりを繰り返す。
讃岐の生んだマルチタレントの平賀源内さんはエレキテルを修復した人。画家でもあり、陶芸家でもあり、本草学者でもあり、コピーライターでもあり、地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家でもあった。さぬき市のミケランジェロともいうべき人。でも、後がいない・・・。
小西和(こにし・かなう)は、香川県寒川郡長尾村(現さぬき市)出身。札幌農学校で植物学を専攻した。東京朝日新聞に入社して、博物方面の記事を担当し、『日本の高山植物』(二松堂)を著した。また日本海洋会の理事となり、『瀬戸内海論』(文会堂)を著した。実業方面では、南満州製糖株式会社・亜細亜煙草株式会社・中国葉煙草株式会社・東亜拓殖興業株式会社の取締役を歴任した。明治45年の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回の当選回数を数えたという人。柿ノ本人麿には遠く及ばない。
一方、こちらは「軒原庄蔵」という人。水の恩人、軒原庄蔵は、文政十一(1828)年七月高田村に生まれる。水不足に困る弥勒池(本市大川町)の貯水増のため、三ッ石山の岩盤をほりぬき、砕石谷からの導水に成功し多くの農民を救った。随道工事は、当時田面村の工事監督多田信蔵(霞岳)、富田中村の数学者萩原栄次郎などの協力を得て、安政二(1855)年からほり始め、安政四(1857)年11月14日の夜明けに貫通し、長さ百五間の石穴を貫通させる難工事であった。この画期的な工事を完成させた功績により、高松藩から郷侍格にとりあげられた後、明治二(1869)年満濃池の閘石穴穿鑿工事を命じられ、明治三(1870)年三十間余の石穴を完成させ、讃岐の治水に貢献した。このため、満濃池の恩人とあがめられ、満濃池湖畔の松崎神社に合祀されている。明治二十三年(1890)六十三歳でふる里に没した。 久米通賢には少し及ばないかも。
ということで、今日もパソコンをカタカタやりすぎて、目が霞み、肩こりがして耳鳴りが止まらない。
それにしても、今日も蒸し暑い一日になった。雨が降ったり雷が鳴ったりと天候不順の毎日が何日、続いているのだろうか。農家の人たちは稲刈りができずに困っているし、野菜農家も天候不順で困っている。これでは、野菜も高くなるというものだ。
まだまだ先だとばかり思っていた彼岸花もいつの間にか花を開いている。そういえばセミの声は聞こえなくなったし、虫の声は早くから聞こえるようになった。自然は、したたかに秋の準備をぬかりなくやっている。私たちもうかうかとしてはいられない。
今週はゆったりとできるが、来週からはいろんな行事が詰まっている。今できることから片づけておかねば、秋の収穫に間に合わなくなってしまいそう。
今日の掲示板はこれ。「涼しさや 弥陀成仏の このかたは」という小林一茶の俳句からである。この句の「涼しさ」は残暑に、ふとそよぐ風の涼しさをあらわすものであるという。省みればあれほどの猛暑もいつしか遠ざかり、「急に冷え込みましたなぁ」と挨拶を交わす時期になった。「秋はどこにいったのか」と環境の変化を嘆く。阿弥陀さまはそんな私たちのありさまを救おうと、五劫という永い間、ひたすら思惟くださり、成仏されたという。人間の思考や歩みをはるかに越えた、悠久の過去から、そしてまだ見ぬ未来へ向けて大きな願い(本願)をかけてくださっているという。そんなご恩を、ふと流れてくる涼しさの中に感じたいものである。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。